駒場祭に行ってきました!!
駅を出るとそこはもう東大の駒場キャンパス。
いきなり看板が視界に飛び込んでくる。
物凄い混雑で、どの写真にも人がたくさん映り込んでしまったので、こんな写真ぐらいしか載せられない…。
看板に書かれた「はい、ちーず」とは一体何なのだろう。
もしかして、今年の学祭のテーマか何かか??
どうにも気の抜けたコピーだ。
さて、今回は、駒場キャンパスで11月に開催される駒場祭に行ってきたのだが、
実は、東京大学には、二つの学園祭があることをご存じだろうか。
一つ目は、本郷キャンパスで行われる五月祭。
その名の通り5月に開催され、入学したばかりの新入生がクラスやサークル毎に模擬店を出し、親睦を深める機会になる。
ちなみに赤門とか三四郎池、安田講堂など有名なものは、大体が本郷キャンパスにある。
そして二つ目がこの三連休に開催されている駒場祭。
これは、渋谷から京王井の頭線で二駅の駒場キャンパスで行われる学園祭。
今回、顔を出してきた学園祭はこちら。
僕の友人たちはもう上級生が中心で、今回の駒場祭に出店している人はあまりいないし、人込みにつかれてしまったのであまり長居はしなかったのですが、一つだけ戦利品を獲得した。
食堂前の通りでテントを構えていた東京大学文学研究会。
彼らの文芸誌『駒場文学』の最新号を購入しました。
小説や詩が盛りだくさんで綺麗な装丁。
これが500円なので満足度はかなり高め。
まだ中身は読めていないので、早く時間を確保したいところ。
ちなみに、『駒場文学』はこちら。
シンプルでなかなか良い。
駒場祭にまつわるエピソードはこのくらいしかないのだが、
「駒場祭に行って、文芸誌買ってきたよ」
という報告だけで終わるのは味気ないので、東京大学に関する豆知識をいくつか紹介しようと思う。
もう少しお付き合いいただきたい。
今日は、東京大学のキャンパスについての話をしよう。
東大のキャンパスは主なものが2つ。
それが駒場と本郷。
めちゃくちゃカンタンに言うと、駒場は下級生用で、本郷は上級生用。
(他には、柏や中野などいろんなところにキャンパスがあるらしい)
まず、東大に入学した学生は全員が前期教養学部に所属する。
ここでは、自分の入った科類(コース)に沿った分野を中心にあらゆることを勉強しなくてはいけない。
→いわゆるリベラルアーツ。
英語や第二外国語はもちろん、
文系の学生も数学や物理学、脳科学の授業を履修する事ができるし、
反対に理系の学生が歴史や国文学の入門講義をとることも可能。
そのため下級生は始めのうちは全員が駒場に通う。
そして、皆さんも聞いたことがあるかもしれないが、
2年生の夏休みに進路振り分けが行われる。
これは、入学時の科類と学生個人のそれまでの学業成績によって優先順位が変動しつつ、希望の学部学科に振り分けるという東大の一大イベントだ。
成績がめちゃくちゃ良ければ、医学部にだっていける(年数人の狭き門)し、
勉強をさぼっていると希望学部に行けないかもしれない。
これは、自分の専攻分野を大学に入学して1年半の勉強を踏まえて判断できる自由度の高いシステムだが、
希望進路に進むため興味の薄い分野でも高得点を取るために勉強が必要という問題?もある東大生を悩ませる仕組み。
さて、この進学振り分けを経た学生は、それぞれの学部に進学する。
この進学先の学部の大半が本郷にあるため、
上級生のほとんどは本郷キャンパスに移ることになるのだ。
(ちなみに、一部学部学科の学生は引き続き駒場キャンパスで学ぶ人もいる。)
ちなみに僕は、駒場での前期教養学部期間を経て、今は本郷の文学部に所属している。
安田講堂の目の前の建物(法文館)で哲学や宗教、国文学系の授業を受けています。
赤門や安田講堂といった有名な建築物があるからか、
本郷キャンパスには観光客にも人気のようだ。
特にここ数年、中国や韓国からの旅行者が多く訪れて、
キャンパス内のあちらこちらで記念写真を撮っているところを見かける。
また、少し前までは修学旅行シーズンだったため、地方の中高生もたくさん見学に来る。
この中に、数年後、東大生になる後輩もいるのかなと夢想するのは楽しい。
楽しいのだが、問題もある。
学生服を着ていた時代を思い出し、自分も年をとったと思い知らされるので彼らはかなり目に毒な存在だったりするのだ。
と、こんな感じで東大のキャンパスにまつわるお話は終わりにしようと思う。
余談
もし、ブログを読んでくださっている方で、
「東京大学に関する〇〇が知りたい!!」というものがありましたら、
コメントやTwitterのリプライで聞いてください。
個別にお答えしたり、ブログのネタにしたりします。
特に、中高生にとって、進路や勉強のことの情報はかなり大きい。
地方出身の自分も情報不足に悩んだ経験があるので、
どんな些細なことでも構わないので是非是非質問してください。
最後の方は、本や読書というテーマからは大きくそれてしまいました。すいません。
では、今日はこれで失礼します。
冲方丁『一二人の死にたい子どもたち』の感想文
冲方丁『一二人の死にたい子どもたち』
今日、紹介するのは実写映画化も決定し注目が集まる、この作品。
『一二人の怒れる男』と『一二人の優しい日本人』という作品がある。
前者は、アメリカの作品で、はじめはテレビドラマとして、その後映画として製作された。
後者は、このアメリカ映画のオマージュで三谷幸喜が脚本を書いた戯曲、同様に映画化もされている。
元となったアメリカ映画『一二人の怒れる男』は、父親殺しの罪に問われた少年の陪審員裁判を描く。
状況は少年に不利で、一人を除いて全員が有罪を主張する。
しかしただ一人少年の無罪を信じる陪審員が疑問を投げかけ議論が進むという作品だ。
もう半世紀以上昔の古い映画だが、映像技術よりも脚本で魅せる名作なので、今なおその価値は色あせてなんかいない。
そして、三谷幸喜によるオマージュ作品『一二人の優しい日本人』
これも、陪審員裁判を描くものだが、舞台は日本。
逆に11人が無罪に票を投じる中で、一人の男だけが有罪を主張する。
論理的な議論がなされるアメリカ映画とは違い、グダグダの議論が展開され有罪無罪はころころ入れ替わる。
「日本人的」な部分が笑えるし、同時に深く心を打つ名作だ。
僕はこの映画の大ファンで、何度見たかわからない。
さて、では今日紹介する小説の話に移ろう。
冲方丁の『一二人の死にたい子どもたち』は、
前述の二つの作品同様に12人の人間が集められて議論するという構図だが、
決定的に違うのが集まった人の種類と集まった動機。
それぞれに問題や悩みを抱えた10代の子どもたちがネットを通じて知り合い、
集団自殺のためにとある廃病院に集まる。
集いに参加した彼らはさっそく集団自殺をしようとするのだが、身元不明の13人目の少年がすでに死んでいるため物語は一変する。
13人目のことは置いといて、自殺するか多数決をとるが、一人の少年だけが自殺を延期し13人目がなぜいるのかを話し合うように求める。
ここまで読んだだけで、「お!!12人の展開だ」と多少興奮を覚える僕がいた。
集まった子どもたちは自殺志願者という重い前提こそあるものの、ここから12人の議論が展開されるのかと期待する。
しかし、集まったのは、日本人でさらには子ども、ちゃんと議論ができるのかと不安にも思う。
ただそこは、病気で自由に体を動かせない生活を送ってきた分、思考力に全振りして育ったという設定の天才少年の活躍で議論は進む。
『一二の優しい日本人』ファンの僕としては、この映画同様、最後は優しいオチがついてみんなで飯でも食いに行こう的な展開が望ましいのだが、
13人目問題を議論する彼らは、その問題については意見が分かれるものの、自身の自殺に対してはなかなか強硬な姿勢を示す。
物語が進むにつれて、13人目問題から発展し、各々の境遇や自殺の理由などにも話は及び、
最初は自分の意見を出さなかった控えめな参加者たちも議論に参加し、話し合いは白熱したものとなる。
基本的には、廃病院の一室で集団自殺志願者の子どもが話し合うだけの物語。
場面も固定され、ともすれば退屈なストーリー進行になりがちな作品だ。
それにも関わらず、読者をひきつけて次から次へと頁をめくらせる作者の冲方丁の筆力は圧巻だし、
『一二人の怒れる男』のベースとなるプロットの構造がいかに優秀なのかを思い知らされる。
先が気になって仕方なくなるタイプの作品なので、ここではこれ以上のネタバレは避けることにしようと思う。
冲方丁の手による「一二人」系統の新たなオマージュ。
少年少女を主役にした本書は、最高のミステリーで、最高のサスペンスで、そして最高の議論だ。
是非、未読の方には本作『一二人の死にたい子どもたち』を手にとっていただきたい。
そして時間があれば、冒頭で紹介した二作の映画も鑑賞することをオススメする。
→今回紹介した『一二人の死にたい子どもたち』の原作文庫。
→『一二人の死にたい子どもたち』のコミック版。
十二人の死にたい子どもたち(1) (アフタヌーンコミックス)
- 作者: 冲方丁,熊倉隆敏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/11/07
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→アメリカ映画『一二人の怒れる男』
12人の怒れる男/評決の行方 [AmazonDVDコレクション]
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→三谷映画『一二人の優しい日本人』
映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』の感想文
前々から見たくてたまらなかった『ファンタスティック・ビースト』シリーズの最新作が、本日11月23日に公開された。
公開初日の深夜25時頃、相変わらずの喧騒に包まれる新宿歌舞伎町のど真ん中に位置するTOHOの映画館で、早速見てきました。
今回は、いつもと違って映画の感想を書くことにしようと思います。
『ファンタスティック・ビースト』は、世界中で最も有名なファンタジー作品の一つ『ハリー・ポッター』シリーズのスピンオフ的な位置付けの作品だ。
ハリー達が通うホグワーツ魔法学校で使われていた教科書の著者として名前だけが登場していたスキャマンダー氏。
その人物が主役のこの映画は、『ハリー・ポッター』の物語から数十年前が舞台になる。
今回見てきた『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』は、
2016年に公開された『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』に続くシリーズの第二作。
前作では、主人公のニュート・スキャマンダーが魔法生物に纏わるアクシデントを解決し、クライマックスで強大な闇の魔法使い・グリンデルバルトを捕まえるところで物語が終わる。
そして今作では、その捕まえたはずのグリンデンバルトに冒頭でいきなり逃げられてしまう。
前々から思っていたが、この作品の世界における司法関係は少々無能すぎやしないだろうかとツッコミをいれたくなる。
一方、主人公のニュートはダンブルドアに、グリンデンバルトと戦ってくれと言われる。
ダンブルドア本人は誰よりも強い魔法使いのはずなのに、何故かラスボス・グリンデンバルトとは戦ってくれない。
『ハリー・ポッター』シリーズには、魔法界の過去として、ダンブルドアがグリンデンバルトを倒したというエピソードが語られていたはずなので、ここで見ている人は疑問を抱くだろう。
本作では、
- グリンデンバルトの邪悪な企みが徐々に明らかになったり
- ダンブルドアが戦わない(戦えない)理由が説明されたり
- 主人公ニュートとその仲間たちとの関係性が変化したり
と『ファンタスティック・ビースト』シリーズにおいて、ある種説明回のような役割をもった作品という印象を受けた。
そのため、色々と複雑な人間関係を説明がなされるなど見ているこちらは物語についていくのも一苦労。
正直な感想としては、この映画一作だけを見て十分に楽しめるというタイプの作品ではないと感じた。
ただ、逆に、『ハリー・ポッター』シリーズのファンにとって、そして前作『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を見た人にとっては最高の映画だと思う。
では、シリーズのファンの一人である僕がこの映画を楽しんだ3つのポイントを紹介したい。
①魔法生物の活躍
『ハリー・ポッター』世界の大切な住人は魔法使いだけではない。
原作でも、ドラゴンやケンタウロス、バジリスクなど様々な不思議な魔法生物が活躍したが、
この『ファンタスティック・ビースト』では、さらに彼らが物語で重要な役割を果たす。
お宝を集める二フラー(モグラっぽい見た目)や、ニュートのポケットが定位置のボウトラックル、中国生まれのズーウーなどが主人公の助けになります。
さらには、河童が登場し、ニュートが「Japanese water ○○」と言うシーンもあり、日本人の僕たちはちょっとうれしくなったり。
ちなみに、○○のところ、僕のリスニング能力が壊滅的で聞き取れませんでした。
意味的には、Japanese water spirit/monsterとかだろうか。
年々リスニング能力が低下して、映画の音声も追いきれなくなってきました…。
②シリーズ特有の世界観
『ハリー・ポッター』 シリーズは何といっても作品全体の世界観が魅力的だ。
ハリーやニュートたちが使う魔法の呪文や色んなアイテム。
そしてホグワーツという魔法使いの学校。
そして様々な登場人物。
原作では偉大な老魔法使いとしてハリー達を教え導くダンブルドアの若い頃の姿が見れたり、賢者の石を作ったことで有名な?ニコラス・フラメルが活躍したりするのは見ていて興奮する。
そして何より、魔法が散りばめられたロケーションも素晴らしい。
僕は、『ハリー・ポッター』の魔法省という役所の風景が凄く好き。
電話ボックスから地下に運ばれ、不思議な装置があちこちにある薄暗い魔法使いのための役所。
本作では、イギリス、アメリカ、フランスという3つの国の役所が出てくる。
どの国の役所も、魔法に満ちていて(自動で動く掃除ロボ?や棚とか…警備の魔法生物とか…)、一方で何となくお国柄みたいなものが感じられたりもする。
これから見るよという方は、魔法省の様子にも注目していただきたい。
③エンディング
物語本編が終わると流れるスタッフロールが凄く気に入った。
なんでそんな細かいところを挙げるのと思われるかもしれないが、気に入ってしまったものは仕方ない。
特に良いのが、ダンブルドアとグリンデンバルトの文字がと共に彼らの顔が浮き出てくるところ。
この二人の偉大で強大な魔法使いが暗示されているような絵面は最高だし、ジュード・ロウとジョニー・デップがカッコイイ。
余談だけど、映画を見た後で映画館の売店でこの本を衝動買いしてしまいました。
『ファンタジー映画大解剖』めちゃくちゃ面白そうじゃないですか??
映画の余韻に浸りながら読んでみようと思います。
志賀晃『スマホを落としただけなのに』の感想文
志賀晃『スマホを落としただけなのに』
今日、紹介するのは、『スマホを落としただけなのに』という作品。
現在、北川景子さん主演の映画が公開中で、広告を繰り返し見るうちに気づいたら購入していた。
スマホを落としただけなのに (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)
- 作者: 志駕晃
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2017/04/06
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この作品、まず何よりもタイトルがずるい!!
そして、そのスマホを落とす、というこれまた誰の身にも起こりうる出来事。
物凄く等身大の出来事でありながら、スマホを失くしたら大変なことになると重々認識している現代人にとっては、そのタイトルだけで少しゾッとしてしまう。
一度目にしたら、なかなか忘れられない素晴らしいタイトルだと思う。
まずは本作のあらすじ。
麻美の彼氏の富田がスマホを落としたことが、すべての始まりだった。
麻美を気に入った男は、麻美の人間関係を監視し始める。
セキュリティを丸裸にされた富田のスマホが、身近なSNSを介して麻美を陥れる狂気へと変わっていく。
いっぽう、神奈川の山中では身元不明の女性の死体が次々と発見され……。
「BOOK」データベースより
さて、ここからは僕の感想となっていくのだが…
先に断りを入れておくが、今回は思いっきりネタバレをしてしまう予定でいる。
小説を未読の方や、これから映画を見るつもりだという方は、自己責任で先に進んでいただきたい。
『スマホを落としただけなのに』は三つのパートで構築される。
①スマホを拾った側
拾ったスマホを起点に麻美のプライベートを暴く謎の男。
②スマホを落とした側
麻美の彼氏がスマホを落としたことをきっかけに、窮地に陥れてしまう。
③警察
神奈川県の山奥で身元不明の女性の死体を発見し、捜査を進める警察。
この三者の視点を行き来しながら、物語が進むことで、読者は作品に引き込まれていく。
文庫版の解説では、作家の五十嵐貴久が、
「頁を開く前に、まず時計を確認しておくべきだ。少なくとも数時間、あなたは本書から目が離せなくなる。
ファーストシーンからクライマックス、そして驚愕と感動のラストシーンまで、食事、睡眠はおろか、トイレにさえ行けなくなる」
述べている。
全くその通りで、一度読みだすと止まらない。
黒髪ロングが似合う美人な麻美がどうなってしまうのかと気が気でない。
ハッキングを続ける男は、次に何をしかけるのか。
そして警察は、麻美が殺される前に、犯人にたどり着いてくれるのか。
早く次へと進みたくて、あっという間に読み終わる。
解説は本編が終わってから読む派閥なので、時計の確認は怠ってしまったが、
おそらく一時間半程度が瞬時に過ぎ去っていた。
スマホやSNSといった現代社会特有の装置を思いっきり駆使した本作は、
読者にとって身に迫る恐怖を伴う臨場感を与える傑作だ。
Facebookなどを用いて、麻美の身辺がいとも簡単に暴かれていく様子は読んでいて震える。
もし、自分に悪意が向けられたとしたら、自分も同様の被害に合うのだろう。
ただ、この作品のSNS描写は「大人のSNS社会」という様相が感じられる。
たぶん、今の若い層は『スマホを落としただけなのに』に描かれるのとは違うSNSの使い方をしているし、言葉を選ばずに言うと少し古い印象もある。
もっともこれは作者に責があるというよりは、あまりにも早く移り変わる現代ネット社会の方に原因があり、物語そのものの面白さには影響はない。
この作品では、冒頭から、正体不明の男が色んな存在に成り代わり麻美に魔手を伸ばす。
小説を読みなれた訓練された読者にとっては、
「この物語、これだけで終わりではないな」という考えに行きつくだろう。
そうなると、麻美か彼氏の富田にも描写されてない秘密があるに違いないと考えないだろうか。
少なくとも、僕はそう思った。
メタ的な視点で、小説の仕掛けを先読みしてしまうようなこの習性を恨めしく思うのだが、考えてしまうものは仕方がない。
ここでは、実際に、隠されていた秘密そのものに言及するような野暮なことは避けるが、確かに秘密はあった。
僕は、
作中冒頭で作品全体にとって重要なカギとなる仕組みが提示され、
その仕組みが形を変えて最後にもう一度出現する
タイプの小説を、脳内で勝手に「入れ子式」と分類している。
最近の人気作品、この「入れ子式」のどんでん返し多いような。
僕の勝手な印象だろうか。
そして最後に次の一冊を紹介したい。
皆さんは、貴志祐介の『黒い家』をご存じだろうか。
保険金殺人をテーマに、現在進行形のホラーが読者を引き付けるこの作品もエンタメ性抜群。
『スマホを落としただけなのに』は、この『黒い家』を彷彿させる。
読み手側が、自分自身がその恐怖の当事者になり得るのではないかと不安になるくらいリアルなホラー。
『スマホを落としただけなのに』を楽しんだ人にとって、
是非お勧めしたい次の一冊です。
未読の方は『黒い家』も併せて読んでみてほしい。
- 作者: 貴志祐介
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
- 発売日: 2012/10/01
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読まず嫌い?の作家
世界中の本を全て読むなんて不可能なのだから、当然、読んだことのない作品は無数にある。
ただ、読める本には限りがある中で、ジャンルにこだわらずけっこう色んな小説を読むように心がけているにも関わらず、
「え、こんなに人気な作家さんの本を未読だなんて」
と、自分自身で驚くことがある。
別に、特段理由があるわけではないけど、何故か触れたことのない作家さん。
僕にとって、浅田次郎がその一人だった。
あれだけ多作で、人気もあるのに、どうしてこれまで読んだことがないのか本当に不思議だ。
だが、先日、そんな浅田次郎との出会いの機会が不意に訪れた。
本当にたまたまだが、書店で彼の作品を手にした。
そして、早速読んでいる最中だ。
まだまだ物語は序盤だが、既に作品に惹き込まれてしまっている。
今まで読んでこなかった、過去の自分に呆れている。
やはり、食わず嫌いも、読まず嫌いも良くないな。
(読まず「嫌い」だったわけではないけれど笑)
減らない積読
最近、本当に困っていることがあります。
積読が減りません。
いや、むしろ増えるばかり…。
10月16日に、本屋さん巡りが好きで、
暇な時間は書店で時間を潰すというお話をしました。
その書店巡りの時の、本を買う基準がどんどん甘くなっている気がする。
以前なら、家に未読の本もたくさんあるしと我慢していたのに、
「ブログに読書感想文を書くネタにもなる」
の言葉を免罪符にして、購入までのハードルがだだ下がりしてる。
財布の紐が緩みきっている。
一昨日は、立ち寄ったBOOKOFFで小説を中心に7冊買ってしまった。
全部で1000円程なので、これだけ買ってこの値段なんて自分は買い物上手だな!と喜んでいたのだが、
家に帰って冷静になると、まだまだ読んでない本がいっぱいあることを思い出して反省した。
そして、反省したばかりなのに、今日また小説を買ってきてしまった。
上中下の3巻ある大作に、気になっていた冲方丁さんの『十二人の死にたい子どもたち』
本を読む速度より、読みたい本が生まれる速度の方が数段早い。
もうこれはどうしようもない。
ただ、もう少し計画的に買わないと(笑)
感想文のネタになる本は相当数仕入れたので、どんどん更新頑張りたいと思います。
海堂尊『チーム・バチスタの栄光』の感想文
未知の世界というと宇宙だとか、深海だとか、はたまたジャングルの奥地だとか…
そういうものが思い浮かぶ。
でも、僕たちにとっては「病院」というのもそれらに匹敵するくらい未知の世界だ。
風邪をひいたり、ケガをしたり、患者として病院に行くことはあっても、内部のことはとんと検討がつかない。
医者といえば、
- 医学部卒で頭が良い。
- お金持ち。
- 白衣を着ている。
- 大学病院では権力闘争をしている??
- 忙しい。
などなど、勝手なイメージはたくさん思い浮かぶ。
小説とかドラマとかの影響をかなり受けていて、病院や医師の実像とはかけ離れたものかもしれない。
病院は、普段生きている社会の中にありながら、どこか俗世とは違った性質を有している(ような気がする)。
人々は、そんな病院というロケーションが大好きなのだ。
だからこそと言うべきだろうか。
現役の医師が書いた本というのは、それだけで興味が惹かれる。
リアルな医師の様子、診察の雰囲気、外科手術の臨場感といったものは、実際に経験した者にしか書けない部分が多々あるだろう。
中でも、海堂尊の書く病院は面白い。
医療現場で起きる事件を解決するという構図が定番の彼の作品では、多くの場合、架空都市の大学病院が舞台となる。
現役医師が描く、リアルな病院では、リアルな診察や手術が行われ、現実でも起こっている医療問題への言及がなされたりもする。
内部で暮らす医師の視点からの病院はやはりそれっぽい。
『チーム・バチスタの栄光』でも、作中の手術シーンは緊迫感に包まれているし、それ以外でも、手術をモニタリングできる部屋の様子やら、外科医師とか麻酔医とか看護師とかの関係性といった一般人が想像して書く医療ドラマではとうてい記述できなさそうな細部までリアルだ。
もちろん読者は、現実の病院を知らないので、この場合のリアルというのは、あくまでリアルな雰囲気がするという意味だが…。
こうした医療現場の様子が描写されているという点は海堂尊作品のアピールポイントの一つだろう。
だが、同時に、「リアルとは程遠い部分」があるという点こそが最大級の魅力なのだ。
それは、人だ。
『チーム・バチスタの栄光』の登場人物たちは、どう考えても普通の人たちではない。
誰もかれもキャラが立ちすぎているくらいだ。
リアルな舞台設定とはアンバランスなくらい、ファンタジーな登場人物が配置されている。
それこそ、漫画やアニメの登場人物みたいにキャラの特性が誇張されている。
タイトルにもなっている高難易度のバチスタ手術に挑む、「チーム・バチスタ」の面々。
そのバチスタ手術に起きた問題の調査にあたる同病院の田口先生。
血が嫌いで、患者の愚痴をひたすら聞いてあげる通称・愚痴外来が彼の仕事。
閑職を自ら望む昼行灯的な医者で本作の語り部を担う。
そして、田口先生と共に事件解決を目指す厚労省からやってきた白鳥。
「ロジカルモンスター」とか、「火喰い鳥」とか、「ゴキブリ」とか、めちゃくちゃなあだ名をつけまくられる彼は、その名に恥じぬ強烈な人物。
論理的で頭が良いのに、様々な問題を起こし、多くの人に避けられている。
ちなみに医師免許も持っている。
僕が最初に『チーム・バチスタの栄光』を読んだのはもう10年前だろう。
その後もシリーズ化した本作の続編を何冊か読んだとはいえ、それらも読んでからは、けっこうな日が立つ。
それでも作中のキャラクターは未だに覚えている。
それくらい強烈な個性を持った登場人物たちなのだ。
海堂尊は、現役の医師としての経験や知識を活用し、
リアルな病院という舞台を作り上げたのに関わらず、
そこに配置するピースはあえて非リアルな人間を選んだ。
それなのに、医療現場で起きる事件の臨場感は欠片も損ねず、
フィクションとしてのエンタメ性を最大限に高めている。