今さら聞けない??そもそも、ライトノベルって何なのか解説します!!(前編)
上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』という作品をご存じだろうか。
今年の1月からアニメが放送されるライトノベル作品だ。
この「ブギーポップ」シリーズの第一作が刊行されたのは1998年なので、もう20年も前になる。
20年前に始まったライトノベルの世界における古典ともいうべきこの作品が、このタイミングでアニメ化されることに驚いたが、単純に映像で「ブギーポップ」シリーズを楽しめることを喜んでもいる。
さて、今回は、ラノベ勃興期の人気作品がアニメ化されたこのタイミングを利用して
「そもそもライトノベルって何なの?」
「ライトノベルっていつからあるの?」
というお話をしてみようと思う。
~目次~
①ラノベの前任者?ジュブナイル小説の存在
まず、ライトノベルを語るうえで欠かせないのがジュブナイル小説の存在だ。
ジュブナイル小説というのは、ティーンエージャーを対象とした小説のことを意味するのだが、
最近あまり使われない表現なので、もはや死語となりつつあるのかもしれない。
少年少女をターゲットにした作品で、思春期や青春を感じられる場面設定とテーマで10代特有の成長や友情、恋愛、葛藤なんかが描かれる。
この作品がジュブナイル小説です!と明確に分類するのは非常に難しいのだが、
あえて代表作をあげるとしたら、なんといっても筒井康隆の『時をかける少女』だろうか。
タイムトラベルを題材にしたジュブナイル小説の代表格だろう。
他にも、『不思議の国のアリス』や『星の王子様』、『オズの魔法使い』、『銀河鉄道の夜』などがジュブナイル小説としてよく紹介される。
なんとなく、どういう作品群を指すのかお分かりいただけただろうか。
先ほど、ジュブナイル小説という言葉は死語かもしれないといったがそれは何故か。
理由は様々で、これと言い切ることはできないかもしれないが、僕個人の意見としては…
日本におけるティーンエージャー向けの小説というポジションが、
②ライトノベルの誕生
しかし、この「ライトノベル」という言葉がやっかいで、なかなか定義が難しい。
僕は、「表紙や文中の挿絵にアニメ調のイラストを採用した若者向けの娯楽小説」として捉えている。
ただ、イラストが無ければライトノベルじゃないのか?
と言われると、別にイラストは必須でもないような気がするし…
最近では10代にライトノベルを読み始めて、20代、30代になってもライトノベル読者であり続ける人も多いので、若者向けというのも絶対ではない。
また、ライトノベルは「キャラクター」が中心となって構成されると言われることもあるが、
物語の構造を語るとなると、キャラを基軸にする風潮はライトノベルに限定される話ではなく、一般エンタメ小説でも同様に思える。
「ライトノベルを刊行するレーベルから出版されるのがライトノベル」という何とも禅問答のような定義を目にすることも多いが、これも如何なものか。
結局は、作者と出版社と読者という作品に携わる各々が、
「これはライトノベルだ」と共通認識をしていればそれがライトノベルなのかもしれない。
③ライトノベルとジュブナイル小説の違い
先ほど、
日本におけるティーンエージャー向けの小説というポジションが、
と述べたが、ここで気をつけて欲しいポイントがある。
あくまで、ティーン向けという役割を継承したにすぎず、この両者は別物だということだ。
これまた完全な私見で申し訳ないのだが…
ジュブナイル小説は、【従来の小説をティーンに近づけたもの】だと考えている。
大人が読んでいた小説を、子どもように組み替えた結果がジュブナイル小説なのだ。
そのため、ジュブナイル小説には大人の抱く子どもへの理想像のようなものが組み込まれ、教化的な要素が含まれる。
娯楽であると同時にある種、教科書的な小説でもあるといえる。
一方でライトノベルは、【漫画やゲーム、アニメの世界を小説というメディアで表現したもの】だと考えている。
元々、ティーンエージャーが楽しんでいたエンタメを小説という方法で表現したライトノベルは、ジュブナイル小説的な「お利口さん」な部分が薄れている。
ジュブナイル小説という学校チックな枠組みを物足りなく感じ、そこから外れた場所に生まれたのがライトノベル。
この点で、勃興期のライトノベルは正しい意味で「サブカルチャー」だったといえる。
④前編のまとめ
ここまでの話を整理すると、
- ティーンエージャー向けのジュブナイル小説というジャンルが存在した。
- ジュブナイル小説の役割は、ライトノベルに受け継がれた。
- ライトノベルの定義は難しい。「ライトノベルだと思えば、それがライトノベル?」
- ライトノベルとジュブナイル小説は別ものである。
そもそもライトノベルとは何なのか?という疑問にお答えできていれば幸いです。
さて、後編では、
- どのようなライトノベルが生まれたのか
- ジャンルとして発展していったのか
といったあたりを解説する予定です。
書き終わり次第アップするので、続きをお楽しみに。
斎藤環『承認をめぐる病』の感想文
斎藤環『承認をめぐるる病』
食べたい、飲みたい、勝ちたい、出世したい、眠りたい、笑いたい、友人と遊びたい、恋人が欲しい…
僕たちは色々な「したい」を抱えて生きている。
僕たちが有する様々な欲求のなかに、「自己承認欲求」というものがある。
自分という人間を、認めて欲しい。
そして、自分自身を認めたい。
SNSの隆盛とともに、近年、ますます存在感を増す「承認」というキーワード。
この「承認」とはいったい何だろうか、
という問題に精神医学の立場から答えたのが、
この本は、サブカル文化に言及する雑誌に寄稿したものから精神医学の専門誌に掲載された論文まで、色々なタイプの原稿をまとめ上げたいわゆる論文集だ。
一冊全体でのまとまりにやや欠ける部分があるし、章ごとに難易度にばらつきがある。
そのため、精神医学に関しては素人の僕では、十分に理解できたとは言い難いのだけれど、こんな自分でもわかった範囲で感想を書いてみようと思う。
冒頭でも書いたけれど、僕たち色々な欲求を抱えているし、それを満たしながら生きている。
生きているだけで、食事や排泄、睡眠を行うし、知人・友人と会話をする。
これらだって大切な欲求だ。
そして、基本的に毎日Twitterに触れる生活を送る僕は、そこで「いいね」や「RT」を獲得し、承認欲求を満たす。
だいたい今まさに書いているこのブログだってそうだ。
僕の場合は、「本を読んだ感想を言語化し、糧としたい」という欲求がブログを書くに至る根本的な欲求なのだけど、
それだけだったら別に日記に書いて鍵のかかった引き出しにしまい込んでおけばいい。
だけど、僕はブログという手段で世の中に発信する。
そこにはきっと、「承認」といキーワードが絡んでいる。
自分の書いた感想を人に読んでもらいたいし、レスポンスがもらえたらもっと嬉しい。
「いいね」がつくと満足するし、「RT」して少しでも拡散されたらテンションが上がる。
ブログを通じ、Twitterを通じ、誰かに認めてもらいたいという「かまってちゃん」な自分がいて、これこそブログを書く理由なのだろうと思う。
ただ、僕は、この「かまってちゃん」を好意的に捉えている。
顔も知らない誰かが、僕が書いたものを読んで、そこに何かを感じ、レスポンスをしてくれる。
そして、僕はそれを喜ぶ。
このサイクルに僕は「張り合い」を覚える。
反応があるから、承認してもらえたと感じ、それがまた次につながる。
こうした意味で、承認を求める僕のなかの「かまってちゃん」は良き友であると思っている。
しかし、ここに一つの罠がある。
何かやりたいことがあって、そこでかまってもらえて喜び、「張り合い」に繋げているうちは良い。
目的があって、そこに付随する手段として、もしくは、二次的な「ついで」の目標として、承認欲求と向き合っているあいだは問題ない。
この手段と目的がぐちゃぐちゃになったときがまずい。
承認が第一の目標になって、承認してもらうために、何かをする。
こうなったらまずい。
これこそ本書のタイトルにもなっている「承認をめぐる病」という状態なのではないだろうか。
斎藤環は、こうした承認に関する諸問題を、
アニメやゲームといったサブカル文化、家庭内暴力、秋葉原の通り魔事件などを引き合いにいくつかの視点から解説していく。
その中で繰り返し登場するのが「キャラ」という概念だ。
「キャラ」について説明する部分をここで引用したい。
キャラクターといっても、必ずしも「性格」を意味しない。「キャラ」は本質とは無関係な「役割」であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。それゆえ、所属集団や人間関係が変わると、キャラまで変わってしまうことも珍しくない。
言っていることは難しいのだが、
僕らはこの説明をある種、本能的に理解できてしまうのではないか。
それほどに、僕らは「キャラ」と密接に生きている。
自分という人間が「キャラ」を装って生きるから、承認の問題が余計ややこしくなる。
仮に認められても、それは「キャラ」として認められただけかもしれないし、自分は認められていないかもしれない。
自分が認められても、それは自分が好きな自分じゃなくて、自分の理想を投影した「キャラ」としての承認を得たいのかもしれない。
こうした複雑な自分と「キャラ」と承認の構造は非常に難しい。
筆者は、若者の就職を引き合いに、承認欲求が根底にあって欲求のために行動をすると説く。
様々な物事を容易に満たすことができるほどに物質的に満たされた現代を生きる僕たちにとっての「いかに承認されるか」という問題は、
遠い過去を生きた人類にとっての「いかに雨風をしのぎ、今日の食糧を得るか」という問題と、
同じような意味を持って向き合うべき課題なのかもしれない。
今年の目標
新しい年がきたということ、今年の目標、みたいなものを書き留めておこうと思う。
目標は、5つ
①たくさん本を読むこと
趣味である読書に義務感やノルマといったものを持ち込みたくないので、
何十冊、何百冊といった具体的に何冊読む!!みたいな目標は設定しません。
いろんなジャンルの本をたくさん読んで、いろんな物語やいろんなキャラクターと出会う。
これが最大の目標。
②ブログをたくさん更新すること
ここ一ヶ月くらい更新サボりまくりの人間のセリフとは思えないけど、頑張ります。
自分が感じたことや考えていることを言葉に落とし込んで、文章として発信する。
こうした習慣を持つことは、とても大切なことだと思う。
毎日とはいかないまでも、できるだけ更新頻度を上げていきます
③勉強し続けること
「あ、これ面白いな」と感じたことに積極的に挑戦したい。
興味がもったことを、そのままにしてしまうのはもったいない。
どんどん勉強して、どんどん吸収する。
新しいことを学ぶことは絶対に楽しい。
④健康的な生活を送ること
暇があれば本を読むインドア生活。
読書に熱中すれば、次の日の予定も忘れて深夜や明け方まで読み続ける。
そんな生活を少しは改めたい。
読書をする時間を減らす気はないけど、無駄な時間をやりくりして運動したり、規則正しい生活を送るよう意識したりして、生活を改善する。
⑤たくさん書くこと
ブログの更新とも少し被ってしまうけど、とにかくたくさん書く。
自分の思考を言語化する能力を上げたい。
書くものは、日記でも、ブログでも、小説でも、エッセイでも、Webサイトのライティングのお仕事でも…
とにかく書いて書いて書きまくる!
今年の目標はこんな感じです。
「少しでも、達成できるように…」なんて甘えたことは言わずに、
全部の目標を120%達成できるように頑張ります。
今年もよろしくお願いします。
集中力の話~読書のBGMとか~
「集中する」
言葉にするとカンタンだが、実行するのは難しい。
単純作業を繰り返すときや、勉強するとき、読書するとき、そして今僕がしているように文章をかくとき…
一人で何かしなければならないとき、その時々の集中力の多寡で作業効率は大きく変わる。
でも、「集中しなきゃ!!」と思えば思うほど、他のことに意識がいって注意散漫になってしまう。
最近だと、手元にスマートフォンがあるせいで余計に困っている。
ポケットから小さな機械を取り出すだけで、友人とLINEしたり、SNSを眺めたり、ゲームをしたり、と無限に時間を潰せてしまう。
したいこと、しなければならないこと、があるのに他事に手を出しては、自分の集中力の無さに悲しくなる。
そんな僅かで希少な僕の集中力をフル活用しようとすると、なかなか工夫がいる。
まずは、静かな環境。
僕は騒がしいところだと集中できない。
少しの話し声でも気が散る。
家族団欒の場であるリビングで勉強していたよ、という人とは相いれないタイプだ。
そして、ついつい手が伸びる小説やゲームを遠ざける。
最後にイヤホンをかける。
ここがけっこう大事だ。
下界との交わりを断ち、何かに没頭するぞ!!というスイッチが入る。
読書や勉強中に聴くのは洋楽が多い。
邦楽だと、一瞬でも集中が途切れるとその歌詞を耳が追ってしまうことがある。
だけど、洋楽なら無意識にヒアリングできるほど英語力が高くないおかげで、ついつい耳で追うということがあまりない。
もしくは、歌詞がない音楽を流すこともある。
ちなみに、僕が作業用BGMとして一番気に入っているのは、Savage Gardenというオーストラリアのバンド。
1990年代後半に活躍したデュオなので、覚えている人はあまりいないかもしれないけど、アルバムを2000万枚ほど売り上げている世界的に人気なミュージシャンだ。
落ち着いた大人の雰囲気の曲が多く、ゆっくりと読書したいときなんかには最高なBGMなので、是非聴いてみてほしい。
- アーティスト: サヴェージ・ガーデン,ダレン・ヘイズ,ダニエル・ジョーンズ,ウォルター・アファナシエフ
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックレコーズ
- 発売日: 1999/10/22
- メディア: CD
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浅田次郎『蒼穹の昴』の感想文
「浅田次郎、読んだことないの?絶対面白いから、『蒼穹の昴』読んでみてよ」
と言われた僕は、
「じゃあ、読んでみますね」
と軽く答えてしまった。
書店で分厚い文庫4巻にも及ぶ大作と知って尻込みしたものの、
後には引けないので早速購入してみた。
実際に読み始めると、これだけ長い小説のよくある欠点とでも言うべきだろうか、
最初はなかなか物語に入り込めず苦労した。
清朝末期の中国を舞台にしたこの作品の主人公は、二人の若者だ。
糞拾いで生計を立てる(実質物乞い)少年・李春雲と、彼の兄貴分で郷紳(財力のある有力者)の息子・粱文秀。
この二人が中央に昇り、立身出世を目指すところから物語は始まる。
しかし、その手法が違う。
富豪の息子である粱文秀は科挙試験を受けて、官吏として政界を目指す。
一方で、貧しく学の無い李春雲は自ら浄身して宦官になり後宮を目指す。
(浄身は、要するに自分の男性器と睾丸を切り落とすことです…痛そう…)
物語冒頭から二人の境遇が語られ、科挙試験の苛烈さや、宦官の悲哀を伝える文章が長々と続く。
そのまま文庫4巻のうち、最初の巻が終わってしまうほどだ。
読み進める僕は、なかなか進まない物語に焦れてしまう。
ただ、後で分かるのだけれども、ここの部分ってどうしても必要でもある。
そして、粱文秀が科挙に合格し官吏となり、李春雲が宦官として後宮に仕えることになると、
そして、西太后を支持する后党と、彼女を引退させて皇帝による親政を行おうとする皇党が対立する。
こうした中国史における大転換期には数々の有名人が登場する。
まずは后党と皇党が担ぎ上げる西太后と光緒帝。
后党の有力者である栄禄。
変法運動の指導者・康有為やその弟子たち。
他にも、清朝を打倒し新しい時代を作る袁世凱や孫文、毛沢東といった人物。
伊藤博文も終盤に顔を出すし、既に亡き乾隆帝や朗世寧(ジョゼッペ・カスティリオーネ)も大事な役割を果たす。
歴史好きなら誰もが知っている実在の人物たちに加えて、浅田次郎が生み出した架空の人物が入り乱れ、スケールの大きな物語が展開される。
こうしたうねりの中で、粱文秀は官吏として順調に出世し、皇帝側の有力人物となり、また、李春雲も西太后のお気に入りの側近として頭角を現す。
とはいえ、これだけ多くの実在の人物が登場し、欧米列強の進出を受ける中国の洋務運動から変法運動、そして戊戌の政変が展開するのだから、二人の主人公の影はどうしても薄くなってしまいかねない。
ここで、冒頭が生きてくる。
冗長に感じるほど、丁寧に二人の身の上が書かれているからこそ、この二人のキャラクターが読者にとって強い存在感を持ち、最後まで歴史に埋もれることはない。
浅田次郎は、本作で、単に史実を追うだけでも面白い複雑な時代に、主人公をはじめとした架空の人物を配し、歴史そのものの魅力を損ねることなく小説として成立させている。
この技量は並大抵のものではない。
本当に面白い。
勧めに従って読んでみて本当に良かった。
夏目漱石『三四郎』の感想文
夏目漱石と初めて出会ったのは中学1年生の頃だ。
最初は、『坊ちゃん』を読んだ。
大衆的で、エンタメとして優れたこの作品はかなり面白かった。
そして、『吾輩は猫である』や『こゝろ』と代表作を読んでみた。
どの作品も素晴らしく、中学時代の僕は、「ああ、流石は日本を代表する文豪だ」と背伸びして偉そうな感想を抱いたものだ。
『三四郎』もその頃読んだ。
だが、この小説はあまり印象に残らなかった。
田舎の中学という狭い世界で生きていた当時の僕にとって、上京する主人公の心中を理解するのは難しく、都会の女性との恋愛模様もいま一つピンと来なかった。
それから何年か経って、高校を卒業し、大学に入り、地元を離れ東京で一人暮らしをするようになった。
もう一度、『三四郎』を読んでみた。
僕は圧巻された。
ああ、この小説は凄い。
田舎の高等学校を出て、東京の大学に入学した主人公の見るもの感じるもの全てが、僕の体験とリンクした。
夏目漱石の生きた時代とは、世相も文化も科学技術も何もかもが全然違うのに、それでもそこには人間の普遍的な何かが描かれていると感じた。
その典型が冒頭にある。
主人公が田舎の熊本から電車で東京に向かうシーンだ。
地元を離れる不安や、東京の暮らしへの期待、そして大学で学ぶことになる自分への自負。
そうした複雑な感情を抱える主人公が、電車内で不思議な男と乗り合わせる。
その男は、会話の中で、日本は亡びると言うのだ。
そして以下の引用部分に続く。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を想ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分かれるまで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、この位の男は到る処に居るものと信じて、別に姓名を訪ねようともしなかった。
まだ、東京についていないにも関わらず強烈な洗礼を受ける。
この男の言葉に、これまでの価値観とかが一瞬のうちに全てひっくり返されてしまう。
だけど、それを簡単に認めてしまうわけにはいかない。
悔しさもあったのだろう。
だが、悔しいけど、もう影響されてしまった。
主人公にできる抵抗は、これくらい東京では当たり前で、自分もすぐにそこに染まると信じることくらいしかなかったのだろう。
メディアやインターネットが発達した現代では、東京と地方に価値観の隔たりなんて無いように思われる。
僕もそう信じていた。
だが、いざ上京し、東京と交わるとそれまでには聞いたこともないようなことを言う人間がいる。
わずか最初の十数頁で主人公とシンクロしてしまった僕は、そこからは彼と共に迷うことになる。
シリーズモノとの付き合い方
昨日、紹介したばかりだが、
『十二国記』シリーズの新作が新潮社からアナウンスされた。
それから僕は、「シリーズモノ」について色々と考えてみた。
シリーズが続くことのメリットは大きい。
何より、作品の世界観を膨らませることができる。
練りこまれた複雑な設定を発揮し、巨大な世界を構築し、その中に大量のキャラクターを配置できる。
また、シリーズとして続くことで、主人公の人生を深く掘り下げることが可能だ。
主人公の人生を長く並走することで、読者はより強い親近感を覚え、物語に没入する。
時には、主人公の過去や未来、または脇役たちの人生へと幅を広げることもできる。
だが、このように膨らませた世界観の中で、より長く主人公と共に歩む弊害として、
シリーズが終わるときの虚無感は言い知れないほど大きなものになる。
未熟な幼少期から寄り添ってきた主人公が、
苦難に打ち勝ち、幸せを得るラストは本当に喜ばしいものである反面、
もうこの物語が終わってしまうのかと悲しくもなる。
だが、物語が結末を迎えてくれればまだいい。
寂しさは感じるが、シリーズの完結に立ち会い最高のエンディングを迎えらえれた喜びが癒してくれる。
それに比べて、未完のシリーズというのは耐えがたい。
物語の進展が気になるのに、結末が分からないままひたすらに待たなければいけない。
このもどかしさは本当にキツイ。
だからこそ、数十年というスパンで待ち続けた『十二国記』シリーズのファンの喜びは、途方もなく大きい物であろう。
そして、待ちわびた「続き」に会えることを本当に羨ましく思う。
僕にも、待ち続けている「続き」がある。
しかし、その「続き」には永遠に会えない。
作者が、物語の半ばで亡くなってしまったからだ。
最後に、この、僕が待ち焦がれているシリーズについて話そうと思う。
『ミレニアム』という作品をご存じだろうか。
スウェーデンのジャーナリスト、スティーグ・ラーソンの処女作で三部から構成されるシリーズモノだ。
そして、彼の最後の作品だ。
この小説は、人口900万人のスウェーデンで300万部近く売れた。
そして、世界中の言語に翻訳され、全世界で爆発的なヒット作となった。
しかし、作者のラーソンは第1部が出版されるより先に亡くなってしまった。
彼は、自分の作品が世界的にヒットする光景を見ることができなかったし、
僕たち読者も、彼の作品を知ったときには、既に彼はこの世にいなかった。
『ミレニアム』が日本語に翻訳されてすぐに読んだ僕は、この作品に本当にハマった。
めちゃくちゃ面白かった。
第1部から、第3部へと貪るように読み進めた。
だからこそ、作者がすでに亡くなっていて、
今後続きとは出会えないことを知ったときには本当に悲しんだ。
だが、話はここで終わりじゃない。
スティーグ・ラーソンは第4部以降の構想と草稿、そして一部原稿をPCに残して亡くなった。
そして現在、
その構想を基に、ノンフィクション作家のダヴィド・ラーゲルクランツが続編を執筆している。
僕は、まだその続編を読めていない。
心の中のひねくれた自分が、
「だって別人の書いたものだろ」
と邪魔をするのだ。
本当は読みたいのに…。