読書家は「国語」が本当に得意なのか。
国語という科目は多くの学生を悩ませてきた。
- 単語帳を覚える
- 公式を使いこなせるようになる
- 例題演習を重ねる
といった分かりやすい勉強法がない(と考えられている)ため、
成績がなかなか上がらず多くの中高生が国語に苦しめられてきただろう。
真面目に勉強して、他の教科ではかなりの高得点をとるのに、どうしても現代文の読解ができない人がいる一方で、
宿題もちゃんとやらず、授業中に居眠りしているような落ちこぼれが、何故か国語の点数だけ異様に良かったりする。
きちんと勉強することと、成績に相関性が現れにくいせいで、本を読む習慣の有無が国語の成績に直結すると考える人も多いのではないだろうか。
この「読書家、国語得意説」に対して僕なりの答えを述べていきたい。
個人的な経験
まず、最初に僕自身の個人的な話をしたい。
大前提だが、こんなブログを書いているくらいだから読書は好きだ。
小学校高学年くらいから本格的に小説を読み始め、中学生のときは週に文庫3冊くらいのペースで紹介していたと思う。
人生における読書量のピークは中三の秋だ。
高校受験に備え、夏休みに部活を引退したものの、勉強をさぼってずっと本を読んでいた。
そして、高校に入ると僕は読書から離れていった。
部活が忙しかったのもあるが、「本が友達」状態の内向的な自分を変える必要があると思い、意識的に読書を禁止し、学校の友人たちと積極的に交わるように改めたからだ。
それでも、平均的な10代の少年と比較すればかなり本を読むタイプに分類しても問題ないだろう。
次に成績の話に移ろう。
この際だから、正直に告白しよう。
高校時代の僕の成績は相当悪かった。
間違いなく、落ちこぼれだった。
高校には部活をしに行っているようなもので、授業は半分くらい居眠りをしていた。
地方の中堅どころの公立進学校で学年全体の下数人という立ち位置だった。
その頃受けた全国共通の模擬試験の成績は、どの教科も全国平均を下回っていた。
ただ、今日の本題の国語の成績だけは良かった。
もちろん勉強していないので古文漢文を含む国語全体の成績は酷いものだった。
現代文に限定すればそれなりに成績は良かったと記憶している。
しかし、あくまでも「それなり」に良かっただけだ。
確かに、一かけらも勉強していない他教科に比べれば、格段に良い点数を取れた。
でもそれだけ。
当時の僕は、全教科が「不得意教科」だった。
ただ、国語だけ唯一「不得意」の枠からは何とか脱していたに過ぎない。
要するに何が言いたいのかというと…
本を読む習慣があるということは、
「国語(特に現代文)が不得意で、全くできない状態を脱する要素にはなる」
という程度には役に立つ。
これが結論だ。
ここからは、僕がこの結論に至った理由を挙げたいと思う。
読書家が国語が苦手になりにくい理由
①長い文章を読むことに対しての嫌悪感がない。
国語ができない!と嘆く中高生の多くは、そもそもあの長い問題文をちゃんと読むこと自体を苦痛に感じている。
普段から数百ページの本を読みこなしている本好き少年/少女は、まずその第一関門を突破できる。
これが意外と大きい。
②語彙力で差が出る。
普段から文章を読んでいることで、多くの言葉に出会うのは利点の一つだ。
慣用句や四字熟語、筆者の気取った詩的な表現なんかを抵抗なく咀嚼できれば、国語の試験への苦手意識は間違いなく軽減される。
③日本語の文章の型に慣れ親しんでいる。
これが一番大きい利点だ。
本をよく読む人は、日本語の文章の型を知っている。
例えば、文章で意見を言うときには言い換えがなされるとか、逆接を使うことで自分の意見を強調するとか、小説なら起承転結があるとか…
いつも本を読んでいる人は無意識に理解してるが、文章には仕組みがある。
その仕組みを理解していると、読解の大きな助けになる。
まとめ
この3つの理由から、読書家は国語に対して苦手意識を持たずにすむ場合が多いと考えている。
ただ、皆さんも勘づいているかもしれないが、これは些細な利点だ。
0と1との間の壁は大きいかもしれないが、読書習慣のない人でも国語の勉強を始めればすぐに習得してしまう能力に過ぎない。
だから、読書家は国語という科目において、スタートダッシュは切れるし、苦手にはなりにくいが、受験の際に明確な武器にできるほどかというとNOという答えになる。
読書家だからといって国語が得意とは限らない理由
最後に、読書が好きだからって、国語が抜群にできるようにはならない理由を説明したい。
これは、超単純な理由がある。
国語は他の教科と同様に勉強によって伸びるから!
冒頭で、「国語には分かりやすい勉強法がない(と考えられている)」と言ったが、これは大きな誤解だ。
国語はちゃんと勉強すれば、ちゃんと伸びる。
日本史で、人名や年号を覚えるように…
科学で、元素記号や化学式を覚えるように…
国語も、ちゃんと理解して覚えれば点数が伸びる教科だ。
読書はあくまで趣味であって、勉強ではない。
本が好きとかいうあやふやな点に、国語の成績の原因を求めるのは間違いだ。
現代文だって、正しい取り組み方を学べば、努力に応じて成績は向上する。
ただ、普通の学校における国語の授業はそれを教えてくれない。
教科書にのった名作をみんなで読んで、先生が言う解釈を何となく聞き流すだけ。
それが良くない。
文章の主張を、論理的に抜き出す技法を指導する環境がないから、タイトルみたいな神話がはびこってしまうのだ。
このブログはあくまで読書がテーマです。
頑張って勉強しなくてはいけない中高生に、しょうもない神話(笑)に惑わされてほしくないな~と思ったので、ブログの題材に取り上げてみただけです。
だから、「じゃあ具体的に国語はどうやって勉強するの??」というノウハウをここで書くことはしません。
まあでも、言いたいことだけ言って、ここで逃げるのも卑怯なので、
もし、具体的な勉強のことで聞きたいことがあればコメントやTwitterのリプライで質問してください。
できるだけお答えするようにします。
【追記】
ここで書いたことはあくまで僕の個人的な考えです。
僕の考えが絶対だと主張するつもりはありません。
宮下奈都『羊と鋼の森』の感想文
宮下奈都『羊と鋼の森』
今日の感想文では、二年前の本屋大賞受賞作を紹介しようと思う。
宮下奈都の『羊と鋼の森』は、「師がいて、そこに弟子入りする男の子の話」だ。
高校生の外村が、高校の体育館に置かれたグランドピアノを調律する板鳥の姿を見かける。
それまで、ピアノとあまり馴染みのない人生を歩んできた彼にとって、
ピアノを調律する光景は新鮮な感動を生んだ。
その時の感動がきっかけで、外村はピアノ調律の専門学校で学び、板鳥が働く地元の楽器店・江藤楽器に就職し、先輩調律師たちの背中を見ながら少しずつ成長していく。
外村という青年が弟子。
江藤楽器の先輩調理師たちが師匠。
師匠と弟子というと、僕は専ら、刀鍛冶が燃え上がる火を前に上半身裸で汗を流すような絵を想像してしまう。
だが、本書の師弟関係はもう少し爽やかで幻想的だ。
外村に直接仕事を教えてくれる柳。
彼は、自身でも趣味で音楽を楽しみ、恋人との結婚も控えた爽やかリア充な師匠だ。
外村は彼の仕事に同行し、手伝いをすることで仕事を覚えていく。
面倒見がよく、外村に対して丁寧に優しく教え導く一方で、大切なことはしっかりと諭す。
こんな先輩がいたらと思える素敵な人間だ。
そして、気難しい先輩の秋野。
彼は、以前プロのピアニストを目指していたが、夢半ばで諦め今はピアノ調理師として働いている。
ピアノの実力だけでなく、調律の実力も素晴らしいのだが人間的に難がある。
偏屈で絡みづらく、優しく教えてくれるなんてことはめったにない。
だが、音楽と調律に対してはひたすらに真摯に向き合う。
その姿を通して、外村も様々なものを学んでいく。
そして、外村が調理師を目指すきっかけとなった板鳥。
彼は、江藤楽器のエースだ。
調律の腕は抜群で、世界的な有名ピアニストに指名されて、彼のコンサートで使うピアノを調律する。
作中では、外村と直接会話するシーンこそ少ないものの、目指すべき憧れの存在として、かなり存在感を発揮する師匠だ。
この3人の師匠との交流を通じて成長していく外村の物語は素敵だ。
ピアノや音楽は幻想的に描かれ、師匠が外村に与える助言はどれも心に沁みる。
本当に綺麗な小説だと思う。
「私、美しいものが好きですの」
なんて語る架空のお嬢様に勧めたい。
そして、本作で僕が最も気に入っているのはタイトルだ。
『羊と鋼の森』というタイトルを最初に目にした瞬間に、一目惚れした。
僕の母親は自宅でピアノ教室を開いている。
自宅の一室をピアノ用の部屋にして、そこで教えている。
個人でやっている小さな教室で、生徒数もそんなに多くない。
授業料はピアノの維持費と母のちょっとしたへそくりになる。
そのおかげで、僕の生まれ育った家庭にはピアノがあった。
大きなグランドピアノだ。
光沢のある黒いピアノはなんだが崇高なものに感じられて、
幼い僕は畏怖の念を抱いていた。
そして、ピアノの蓋を開けるとそこは無機質な異世界が広がっている。
ハンマーや絃が張り巡らされたその空間に魅了され、母に黙って勝手に蓋を開けて眺めたものだ。
その時眺めたピアノの内部は、まさしく『羊と鋼の森』だった。
そして、数か月に一度訪れる調律師のオジサンは、その森を自在に操る魔法使いに見えた。
様々な道具を用いて、複雑なピアノ内部を弄るその姿に幼少期の僕は憧れていた。
本当にカッコイイ。
だから、調律師に魅せられる外村の気持ちが痛いほど分かる。
実家にピアノがあったおかげで、外村の憧れに寄り添いながらこの本を読めた僕は本当に幸運だった。
煙草の文学的副流煙の話
ちょっとだけ恰好つけて、気取ったタイトルをつけてみた。
この文章を書いているのは、午前三時過ぎ。
それに、数時間前までお酒を飲んでいて、やっと良いが冷めてきたというタイミングだ。
どうか深夜とアルコールに免じて許してやって欲しい。
小説や映画、劇など様々な創作のなかであるアイテムが特定の役割を持つことがある。
例えば、父の形見の懐中時計は主人公を励ます勇気の象徴になる。
大きな姿鏡の存在は着飾った女性を連想する。
僕たちは、身の回りのあらゆるものに様々なイメージを結び付けて生活している。
その中でも、煙草というアイテムは特に色濃くイメージを想起させる装置になり得る。
(あくまでも物語中のイメージとしての話なので、現実世界における偏見や差別意識みたいなものと結びつけるつもりはありません。ご理解ください。)
若者が煙草を吸えば、非行や暴力などマイナスイメージに繋がる。
特に10代になると、法律では規制されているのに、入手難易度は低い。
火遊び的な「悪事」として使われるアイテムだ。
スーツ姿の中年男性に煙草を持たせれば、仕事に疲れたサラリーマンが出来上がる。
路地裏で独り煙草を吸う彼は、妻子からは軽んじられ、職場でも上司に頭を下げ、部下には疎まれている。
煙草の煙は哀愁を漂わせる。
ばっちり化粧をした女性が細い煙草を吸えば、男に頼らず生きる蓮っ葉な女の完成だ。
もしくは、恋人の影響で煙草を吸う精神的に不安定なメンヘラちゃんかもしれない。
はたまた、水商売を稼業する孤独な女性かもしれない。
煙草の銘柄にも、特定のイメージを思い起こさせる力がある。
日に焼けたガタイの良い兄ちゃんが吸う煙草はセブンスターだろうか。
休日には、サーフィンといったところだ。
しょぼくれた老人が、路頭に迷った主人公に思いがけぬ助言を与える。
この老人がくしゃくしゃに握りしめている煙草は何だろう。
キャスターやマルボロじゃなんだか違和感がある。
わかばやエコー、ショートピースあたりだと雰囲気ってものが出る。
必死に働く一家の稼ぎ頭のお父さんが我が家のベランダで吹かす煙草は、ハイライトだろうか。
マイルドセブンも悪くない気がする。
小説を読む中で、様々な場面で、様々な煙草が、そのシーンを彩る様子を見てきた。
こうした僕の煙草というアイテムから連想するイメージは、個人的な経験に由来するものもある。
だから、皆さんには違うイメージがあるかもしれない。
僕の父はマイセンを吸っていたから、マイセン=父性の図式がある。
赤マルは、ちょっと怖い先輩が吸っていた。
ただ、こうしたイメージも小説からどんどん減っていくのだろう。
街角で煙草を吸う人の姿は年々減っていく。
友人知人の中でも、喫煙者は少数派だ。
禁煙の居酒屋も増えてきた。
今の子どもたちが大人になるころには、煙草から連想するイメージは「古さ」になるかもしれない。
煙草自体は体に害をなし、もちろん、吸わない方が良いものだ。
この前提を崩すつもりはない。
嫌煙論争をここでするつもりも毛頭ない。
ただ、物語から、煙草の煙が消えていくのは少しだけ寂しいかもしれない。
石原慎太郎『太陽の季節』の感想文
石原は、1999年から2012年まで四期に渡り都知事を務めた。
そのため、僕の少年時代に登場する都知事は常に石原慎太郎だった。
物心ついたころからずっとそうだった。
たぶん僕と同世代の若者にとっては、
石原慎太郎=東京都知事で、東京都知事=石原慎太郎の公式が成立している。
「あ、他の人もなれるんだ」
と、よく考えれば当たり前のことに驚いた。
正直言って、彼に対しては小説家としてのイメージはあまりない。
芥川賞も受賞した有名な小説家であることは知識としては有しているが、かなり違和感がある。
これがもっと若い世代までいくと、都知事としてインタビューに答える姿の印象が薄れ、単に事実として彼が小説家だと受け入れられるのだろうか。
余談が長くなったが、僕にとっての石原慎太郎像とはこんな感じであるため、彼の作品を初めて読んだのもかなり遅かった。
20歳になって、やっと『太陽の季節』を読んだ。
大学進学を機に、上京し、一人暮らしを始め、しばらくたって慣れてきた。
そういうタイミングだ。
多少なりとも、「遊び」は覚えたし、一方であまりに派手に「遊ぶ」連中とはどこか合わないなと分かってきた時期だ。
この時期の僕にとって、『太陽の季節』はなかなかに強烈な作品だった。
いや、正直に言おう。
強烈に理解できない作品だった。
作中の登場人物にこれっぽっちも感情が入っていかない。
主人公の竜哉にも、その兄にも、ヒロインの英子にも、彼らを取り巻く友人たちにも…
どの登場人物の心境も理解できない。
普通、どんなジャンルの小説でも、作中の人物に多少自己を投影できる。
古い海外の作品だって、時と場所を超えた人間の本質、と大仰に語るのがふさわしいのかは自信がないが、どこか理解できるものはある。
サイコパスな殺人鬼だろうと、自分とは違うとは思いつつも、どこか理解できる部分もあったりするものだ。
だが、『太陽の季節』は本当に分からない。
数十年前の日本の富裕層の若者。
たぶん、彼らの感覚と僕の感覚とは途方もなく離れている。
遊びに使えるお金の多寡だとか、育った環境だとか、世相だとか、
そういう全てを超えて「違う」感性で生きていると感じた。
何となく始めた拳闘に打ち込み、ナンパした女と体を重ね、金のかかりそうな遊びをする。
文字にすると、今の時代だって似たようなことをする若者はいるはずなのに、
実際に『太陽の季節』を読んでしまうと、「違う」という印象を抱く。
しかしながら、作中の人間が理解できないにも関わらずこの作品には引き込まれる。
『太陽の季節』全体に通う地脈のような、
その時代の石原慎太郎が抱く価値観はとんと理解できない。
でも、この短編は読み手を引き付ける。
最後の一頁、英子の葬式に行き香炉を投げつけ、その後でサンドバッグにいろんなものをぶつけるシーン。
これもあまり理解はできない。
だけど妙に心に残る。
芥川賞受賞作家の筆力故だろうか。
うーん。間違ってはいない。
たぶんそれもある。
だけど、作家の筆の力に答えを求めるのは安直にすぎる。
では、どうしてだろう。
そうやってずっと悩んでいた。
なんで、育ちも人間性も境遇も行動も、自分とは全然違う『太陽の季節』魅せられてしまうのだろう。
登場人物の気持ちなんてちっとも入ってこないのに。
この問いの答えが最近やっと分かった。
正しくは、分かった気がする。
違うと思っていた、作中の人物と僕自身にやっと共通項があった。
僕も彼らもどこか「空っぽ」な部分があるから。
それが僕にとっての答え。
もちろん、その由来は全然違う。
裕福な家庭に生まれ、放蕩生活(10代にも関わらず放蕩という表現に違和感がない)を送る主人公の心には虚無感がある。
男友達や女に囲まれ、遊ぶ金もある。
肉体的にも精神的にも快楽を得ている。
好きなように遊んでいる。
それでもどこか退屈で、どこか「空っぽ」な部分がある。
僕は、そして、僕を含む同世代の若者はどうだろうか。
たぶん、生まれたときにはバブルは終わり不景気だった。
そして、ずっと不景気の中で生きてきた。
実際の景気がどうだったかはともかく、なんとなく不景気っぽい社会風潮だったとう言い方の方が適当だろう。
そして、物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが大事だだとか、学歴よりも個人の資質だだとか…
大人たちは、僕らに対して、より幸せ具合を測る難易度を引き上げてくる。
インターネットやSNSみたいな社会の根底部分での変化もある。
そういったものに僕らはどう向き合えばいいのかわからない。
若者には向上心がない、なんて聞き飽きた説教のお題目がある。
向上心がないんじゃなくて、なにが上なのかも分からないんだ。
だから僕らは何をやっても「どうせ」と思い、「空っぽ」を抱えている。
何もこれは、僕らの世代だけの、もしくは僕だけの特別だと言い張るつもりはない。
たぶん、どの世代に生まれても、どの環境に生まれても、
違う理由で勝手に「空っぽ」を作る。
若者とはそう生き物なんだと思う。
『太陽の季節』という作品は、読む人によって、
理解できるかできないか、
感情移入できるかできないか、
は分かれても、その根底の「空っぽ」だけは共有できる物語だ。
この小説は、時代を超えて若者に「刺さる」
あいみょん『ふたりの世界』の感想文
あいみょん『ふたりの世界』
シンガーソングライターのあいみょん。
兵庫県西宮市生まれの23歳。
自分と同年代の若い方が素晴らしい活躍をしていることは純粋に凄いと感動する。
友人に勧められて聴き始めたのだが、
最初は「あいみょん」というファンシーな名前から、
カラフルな衣装を着たアイドル系の歌手なのだと思ったし、
曲も思いっきりポップなものを想像していた。
でも全然違うんですね。
名前から受けるイメージとは丸っきり反対でビックリしました。
ノスタルジックな曲調だったり、なかなか過激で独特な歌詞だったり、才能を感じる素晴らしいアーティストだ。
椎名林檎を引き合いに出して語る人もいる。
あいみょんと椎名林檎が似ているか似ていないかは置いといても、椎名林檎の名前を出される時点でそれだけ才能と期待が大きいことの証だろう。
そんな彼女の名曲の1つ。
『ふたりの世界』
良曲はたくさんあるが、「歌詞」が1番好きなのはこの曲だ。
ものすごく官能的なラブソングで、あいみょんがとある番組で「官能小説を読む」という話をしていた時は腹落ちした。
冒頭部分を少しだけ紹介しよう。
いってきますのキス
おかえりなさいのハグ
おやすみなさいのキス
まだ眠たくないのセックス
お風呂からあがったら
少し匂いを嗅がせて
まだタバコは吸わないで
赤いワインを飲もう
キス、ハグ、キス、セックスときて、その後は嗅覚に訴求する。
普段はタバコの匂いをまとっている男が、風呂上がりにだけ漂わせる素の匂い。
きっとこの歌詞を歌う女性は、男のタバコの匂いは嫌いではないんだろうな。
ちょっとタバコ臭いけど、それも含めて恋人の匂いで、その匂いを嗅ぐのも密かな楽しみ。
でも、それでも、素のままの匂いもたまに嗅ぎたくなるのだろう。
この後も官能的で、素敵な歌詞が続く。
そして当然、メロディーも抜群だし、あいみょんの歌も素晴らしい。
the若者感満載の「あいみょん」という名前とは裏腹に、大人が好きな歌を歌う。
もし、まだ聞いたこがなければ是非聞いてみて欲しい。
今日も本の感想からは離れてしまい、最近、お気に入りのアーティストについて書いてみました。
小説の感想文もどんどん書くので、よろしくお願いします。
駒場祭に行ってきました!!
駅を出るとそこはもう東大の駒場キャンパス。
いきなり看板が視界に飛び込んでくる。
物凄い混雑で、どの写真にも人がたくさん映り込んでしまったので、こんな写真ぐらいしか載せられない…。
看板に書かれた「はい、ちーず」とは一体何なのだろう。
もしかして、今年の学祭のテーマか何かか??
どうにも気の抜けたコピーだ。
さて、今回は、駒場キャンパスで11月に開催される駒場祭に行ってきたのだが、
実は、東京大学には、二つの学園祭があることをご存じだろうか。
一つ目は、本郷キャンパスで行われる五月祭。
その名の通り5月に開催され、入学したばかりの新入生がクラスやサークル毎に模擬店を出し、親睦を深める機会になる。
ちなみに赤門とか三四郎池、安田講堂など有名なものは、大体が本郷キャンパスにある。
そして二つ目がこの三連休に開催されている駒場祭。
これは、渋谷から京王井の頭線で二駅の駒場キャンパスで行われる学園祭。
今回、顔を出してきた学園祭はこちら。
僕の友人たちはもう上級生が中心で、今回の駒場祭に出店している人はあまりいないし、人込みにつかれてしまったのであまり長居はしなかったのですが、一つだけ戦利品を獲得した。
食堂前の通りでテントを構えていた東京大学文学研究会。
彼らの文芸誌『駒場文学』の最新号を購入しました。
小説や詩が盛りだくさんで綺麗な装丁。
これが500円なので満足度はかなり高め。
まだ中身は読めていないので、早く時間を確保したいところ。
ちなみに、『駒場文学』はこちら。
シンプルでなかなか良い。
駒場祭にまつわるエピソードはこのくらいしかないのだが、
「駒場祭に行って、文芸誌買ってきたよ」
という報告だけで終わるのは味気ないので、東京大学に関する豆知識をいくつか紹介しようと思う。
もう少しお付き合いいただきたい。
今日は、東京大学のキャンパスについての話をしよう。
東大のキャンパスは主なものが2つ。
それが駒場と本郷。
めちゃくちゃカンタンに言うと、駒場は下級生用で、本郷は上級生用。
(他には、柏や中野などいろんなところにキャンパスがあるらしい)
まず、東大に入学した学生は全員が前期教養学部に所属する。
ここでは、自分の入った科類(コース)に沿った分野を中心にあらゆることを勉強しなくてはいけない。
→いわゆるリベラルアーツ。
英語や第二外国語はもちろん、
文系の学生も数学や物理学、脳科学の授業を履修する事ができるし、
反対に理系の学生が歴史や国文学の入門講義をとることも可能。
そのため下級生は始めのうちは全員が駒場に通う。
そして、皆さんも聞いたことがあるかもしれないが、
2年生の夏休みに進路振り分けが行われる。
これは、入学時の科類と学生個人のそれまでの学業成績によって優先順位が変動しつつ、希望の学部学科に振り分けるという東大の一大イベントだ。
成績がめちゃくちゃ良ければ、医学部にだっていける(年数人の狭き門)し、
勉強をさぼっていると希望学部に行けないかもしれない。
これは、自分の専攻分野を大学に入学して1年半の勉強を踏まえて判断できる自由度の高いシステムだが、
希望進路に進むため興味の薄い分野でも高得点を取るために勉強が必要という問題?もある東大生を悩ませる仕組み。
さて、この進学振り分けを経た学生は、それぞれの学部に進学する。
この進学先の学部の大半が本郷にあるため、
上級生のほとんどは本郷キャンパスに移ることになるのだ。
(ちなみに、一部学部学科の学生は引き続き駒場キャンパスで学ぶ人もいる。)
ちなみに僕は、駒場での前期教養学部期間を経て、今は本郷の文学部に所属している。
安田講堂の目の前の建物(法文館)で哲学や宗教、国文学系の授業を受けています。
赤門や安田講堂といった有名な建築物があるからか、
本郷キャンパスには観光客にも人気のようだ。
特にここ数年、中国や韓国からの旅行者が多く訪れて、
キャンパス内のあちらこちらで記念写真を撮っているところを見かける。
また、少し前までは修学旅行シーズンだったため、地方の中高生もたくさん見学に来る。
この中に、数年後、東大生になる後輩もいるのかなと夢想するのは楽しい。
楽しいのだが、問題もある。
学生服を着ていた時代を思い出し、自分も年をとったと思い知らされるので彼らはかなり目に毒な存在だったりするのだ。
と、こんな感じで東大のキャンパスにまつわるお話は終わりにしようと思う。
余談
もし、ブログを読んでくださっている方で、
「東京大学に関する〇〇が知りたい!!」というものがありましたら、
コメントやTwitterのリプライで聞いてください。
個別にお答えしたり、ブログのネタにしたりします。
特に、中高生にとって、進路や勉強のことの情報はかなり大きい。
地方出身の自分も情報不足に悩んだ経験があるので、
どんな些細なことでも構わないので是非是非質問してください。
最後の方は、本や読書というテーマからは大きくそれてしまいました。すいません。
では、今日はこれで失礼します。
冲方丁『一二人の死にたい子どもたち』の感想文
冲方丁『一二人の死にたい子どもたち』
今日、紹介するのは実写映画化も決定し注目が集まる、この作品。
『一二人の怒れる男』と『一二人の優しい日本人』という作品がある。
前者は、アメリカの作品で、はじめはテレビドラマとして、その後映画として製作された。
後者は、このアメリカ映画のオマージュで三谷幸喜が脚本を書いた戯曲、同様に映画化もされている。
元となったアメリカ映画『一二人の怒れる男』は、父親殺しの罪に問われた少年の陪審員裁判を描く。
状況は少年に不利で、一人を除いて全員が有罪を主張する。
しかしただ一人少年の無罪を信じる陪審員が疑問を投げかけ議論が進むという作品だ。
もう半世紀以上昔の古い映画だが、映像技術よりも脚本で魅せる名作なので、今なおその価値は色あせてなんかいない。
そして、三谷幸喜によるオマージュ作品『一二人の優しい日本人』
これも、陪審員裁判を描くものだが、舞台は日本。
逆に11人が無罪に票を投じる中で、一人の男だけが有罪を主張する。
論理的な議論がなされるアメリカ映画とは違い、グダグダの議論が展開され有罪無罪はころころ入れ替わる。
「日本人的」な部分が笑えるし、同時に深く心を打つ名作だ。
僕はこの映画の大ファンで、何度見たかわからない。
さて、では今日紹介する小説の話に移ろう。
冲方丁の『一二人の死にたい子どもたち』は、
前述の二つの作品同様に12人の人間が集められて議論するという構図だが、
決定的に違うのが集まった人の種類と集まった動機。
それぞれに問題や悩みを抱えた10代の子どもたちがネットを通じて知り合い、
集団自殺のためにとある廃病院に集まる。
集いに参加した彼らはさっそく集団自殺をしようとするのだが、身元不明の13人目の少年がすでに死んでいるため物語は一変する。
13人目のことは置いといて、自殺するか多数決をとるが、一人の少年だけが自殺を延期し13人目がなぜいるのかを話し合うように求める。
ここまで読んだだけで、「お!!12人の展開だ」と多少興奮を覚える僕がいた。
集まった子どもたちは自殺志願者という重い前提こそあるものの、ここから12人の議論が展開されるのかと期待する。
しかし、集まったのは、日本人でさらには子ども、ちゃんと議論ができるのかと不安にも思う。
ただそこは、病気で自由に体を動かせない生活を送ってきた分、思考力に全振りして育ったという設定の天才少年の活躍で議論は進む。
『一二の優しい日本人』ファンの僕としては、この映画同様、最後は優しいオチがついてみんなで飯でも食いに行こう的な展開が望ましいのだが、
13人目問題を議論する彼らは、その問題については意見が分かれるものの、自身の自殺に対してはなかなか強硬な姿勢を示す。
物語が進むにつれて、13人目問題から発展し、各々の境遇や自殺の理由などにも話は及び、
最初は自分の意見を出さなかった控えめな参加者たちも議論に参加し、話し合いは白熱したものとなる。
基本的には、廃病院の一室で集団自殺志願者の子どもが話し合うだけの物語。
場面も固定され、ともすれば退屈なストーリー進行になりがちな作品だ。
それにも関わらず、読者をひきつけて次から次へと頁をめくらせる作者の冲方丁の筆力は圧巻だし、
『一二人の怒れる男』のベースとなるプロットの構造がいかに優秀なのかを思い知らされる。
先が気になって仕方なくなるタイプの作品なので、ここではこれ以上のネタバレは避けることにしようと思う。
冲方丁の手による「一二人」系統の新たなオマージュ。
少年少女を主役にした本書は、最高のミステリーで、最高のサスペンスで、そして最高の議論だ。
是非、未読の方には本作『一二人の死にたい子どもたち』を手にとっていただきたい。
そして時間があれば、冒頭で紹介した二作の映画も鑑賞することをオススメする。
→今回紹介した『一二人の死にたい子どもたち』の原作文庫。
→『一二人の死にたい子どもたち』のコミック版。
十二人の死にたい子どもたち(1) (アフタヌーンコミックス)
- 作者: 冲方丁,熊倉隆敏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/11/07
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
→アメリカ映画『一二人の怒れる男』
12人の怒れる男/評決の行方 [AmazonDVDコレクション]
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2018/03/16
- メディア: DVD
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→三谷映画『一二人の優しい日本人』