宮下奈都『羊と鋼の森』の感想文
宮下奈都『羊と鋼の森』
今日の感想文では、二年前の本屋大賞受賞作を紹介しようと思う。
宮下奈都の『羊と鋼の森』は、「師がいて、そこに弟子入りする男の子の話」だ。
高校生の外村が、高校の体育館に置かれたグランドピアノを調律する板鳥の姿を見かける。
それまで、ピアノとあまり馴染みのない人生を歩んできた彼にとって、
ピアノを調律する光景は新鮮な感動を生んだ。
その時の感動がきっかけで、外村はピアノ調律の専門学校で学び、板鳥が働く地元の楽器店・江藤楽器に就職し、先輩調律師たちの背中を見ながら少しずつ成長していく。
外村という青年が弟子。
江藤楽器の先輩調理師たちが師匠。
師匠と弟子というと、僕は専ら、刀鍛冶が燃え上がる火を前に上半身裸で汗を流すような絵を想像してしまう。
だが、本書の師弟関係はもう少し爽やかで幻想的だ。
外村に直接仕事を教えてくれる柳。
彼は、自身でも趣味で音楽を楽しみ、恋人との結婚も控えた爽やかリア充な師匠だ。
外村は彼の仕事に同行し、手伝いをすることで仕事を覚えていく。
面倒見がよく、外村に対して丁寧に優しく教え導く一方で、大切なことはしっかりと諭す。
こんな先輩がいたらと思える素敵な人間だ。
そして、気難しい先輩の秋野。
彼は、以前プロのピアニストを目指していたが、夢半ばで諦め今はピアノ調理師として働いている。
ピアノの実力だけでなく、調律の実力も素晴らしいのだが人間的に難がある。
偏屈で絡みづらく、優しく教えてくれるなんてことはめったにない。
だが、音楽と調律に対してはひたすらに真摯に向き合う。
その姿を通して、外村も様々なものを学んでいく。
そして、外村が調理師を目指すきっかけとなった板鳥。
彼は、江藤楽器のエースだ。
調律の腕は抜群で、世界的な有名ピアニストに指名されて、彼のコンサートで使うピアノを調律する。
作中では、外村と直接会話するシーンこそ少ないものの、目指すべき憧れの存在として、かなり存在感を発揮する師匠だ。
この3人の師匠との交流を通じて成長していく外村の物語は素敵だ。
ピアノや音楽は幻想的に描かれ、師匠が外村に与える助言はどれも心に沁みる。
本当に綺麗な小説だと思う。
「私、美しいものが好きですの」
なんて語る架空のお嬢様に勧めたい。
そして、本作で僕が最も気に入っているのはタイトルだ。
『羊と鋼の森』というタイトルを最初に目にした瞬間に、一目惚れした。
僕の母親は自宅でピアノ教室を開いている。
自宅の一室をピアノ用の部屋にして、そこで教えている。
個人でやっている小さな教室で、生徒数もそんなに多くない。
授業料はピアノの維持費と母のちょっとしたへそくりになる。
そのおかげで、僕の生まれ育った家庭にはピアノがあった。
大きなグランドピアノだ。
光沢のある黒いピアノはなんだが崇高なものに感じられて、
幼い僕は畏怖の念を抱いていた。
そして、ピアノの蓋を開けるとそこは無機質な異世界が広がっている。
ハンマーや絃が張り巡らされたその空間に魅了され、母に黙って勝手に蓋を開けて眺めたものだ。
その時眺めたピアノの内部は、まさしく『羊と鋼の森』だった。
そして、数か月に一度訪れる調律師のオジサンは、その森を自在に操る魔法使いに見えた。
様々な道具を用いて、複雑なピアノ内部を弄るその姿に幼少期の僕は憧れていた。
本当にカッコイイ。
だから、調律師に魅せられる外村の気持ちが痛いほど分かる。
実家にピアノがあったおかげで、外村の憧れに寄り添いながらこの本を読めた僕は本当に幸運だった。