シリーズモノとの付き合い方
昨日、紹介したばかりだが、
『十二国記』シリーズの新作が新潮社からアナウンスされた。
それから僕は、「シリーズモノ」について色々と考えてみた。
シリーズが続くことのメリットは大きい。
何より、作品の世界観を膨らませることができる。
練りこまれた複雑な設定を発揮し、巨大な世界を構築し、その中に大量のキャラクターを配置できる。
また、シリーズとして続くことで、主人公の人生を深く掘り下げることが可能だ。
主人公の人生を長く並走することで、読者はより強い親近感を覚え、物語に没入する。
時には、主人公の過去や未来、または脇役たちの人生へと幅を広げることもできる。
だが、このように膨らませた世界観の中で、より長く主人公と共に歩む弊害として、
シリーズが終わるときの虚無感は言い知れないほど大きなものになる。
未熟な幼少期から寄り添ってきた主人公が、
苦難に打ち勝ち、幸せを得るラストは本当に喜ばしいものである反面、
もうこの物語が終わってしまうのかと悲しくもなる。
だが、物語が結末を迎えてくれればまだいい。
寂しさは感じるが、シリーズの完結に立ち会い最高のエンディングを迎えらえれた喜びが癒してくれる。
それに比べて、未完のシリーズというのは耐えがたい。
物語の進展が気になるのに、結末が分からないままひたすらに待たなければいけない。
このもどかしさは本当にキツイ。
だからこそ、数十年というスパンで待ち続けた『十二国記』シリーズのファンの喜びは、途方もなく大きい物であろう。
そして、待ちわびた「続き」に会えることを本当に羨ましく思う。
僕にも、待ち続けている「続き」がある。
しかし、その「続き」には永遠に会えない。
作者が、物語の半ばで亡くなってしまったからだ。
最後に、この、僕が待ち焦がれているシリーズについて話そうと思う。
『ミレニアム』という作品をご存じだろうか。
スウェーデンのジャーナリスト、スティーグ・ラーソンの処女作で三部から構成されるシリーズモノだ。
そして、彼の最後の作品だ。
この小説は、人口900万人のスウェーデンで300万部近く売れた。
そして、世界中の言語に翻訳され、全世界で爆発的なヒット作となった。
しかし、作者のラーソンは第1部が出版されるより先に亡くなってしまった。
彼は、自分の作品が世界的にヒットする光景を見ることができなかったし、
僕たち読者も、彼の作品を知ったときには、既に彼はこの世にいなかった。
『ミレニアム』が日本語に翻訳されてすぐに読んだ僕は、この作品に本当にハマった。
めちゃくちゃ面白かった。
第1部から、第3部へと貪るように読み進めた。
だからこそ、作者がすでに亡くなっていて、
今後続きとは出会えないことを知ったときには本当に悲しんだ。
だが、話はここで終わりじゃない。
スティーグ・ラーソンは第4部以降の構想と草稿、そして一部原稿をPCに残して亡くなった。
そして現在、
その構想を基に、ノンフィクション作家のダヴィド・ラーゲルクランツが続編を執筆している。
僕は、まだその続編を読めていない。
心の中のひねくれた自分が、
「だって別人の書いたものだろ」
と邪魔をするのだ。
本当は読みたいのに…。