辻仁成『サヨナライツカ』の感想文
辻仁成『サヨナライツカ』
最近、忙しくて感想文の更新が滞りがちですが、本自体はたくさん読んでいます。
本を読む時間があるなら、数千字の文章を書く時間程度確保できるだろと思われるかもしれない。
電車での移動や、大学の授業間の休み時間などの隙間をやりくりして、なんとか読書時間だけは確保できているという状況で、パソコンに向かってゆっくり文章を書く時間はなかなか確保できず…といった具合なのです。
まあ、つまらない言い訳はさておき、今日は辻仁成の『サヨナライツカ』をとりあげたい。
身も蓋もない言い方をしてしまうと、浮気の話。
既に婚約をしている男の浮気なので、不倫といった方が正確なのだろうか。
芸能人の浮気やら、不倫やらのニュースが世の中をにぎわせる昨今、世間の人々の浮気や不倫への忌避感は相当なもの。
もちろん、貞淑さは美点であり、浮気は良くないこと。
だからその価値観は正しい。
ただ、ことに創作の場においては不倫や浮気が必要悪になることもある。
一人の異性を愛すだけでは、単調な物語となるかもしれないが、そこに対比的なもう一人の人物を登場させることで物語は色づく。
よく、学校の国語の授業で「二項対立」という概念が説明される。
これは主に、評論の世界で使われる手法だが、小説にも当てはまる。
極端な二人の女性の対比が、物語の論点を明白にし、ストーリーを進展させる。ことがある。
この『サヨナライツカ』という小説はその典型だ。
主人公の豊の目の前に提示される女は、光子と沓子(とうこ)の二人。
光子は婚約者。
愛嬌があり、可愛らしい。
東大の院を出ており、教養がある。
男の二歩後ろを歩くような控えめで古風な女。
良妻賢母。
そして性的なことには控えめで奥ゆかしい。
沓子は浮気相手。
目を引くような美人で、色気がある。
自由奔放で、豊を引っ張って行くタイプ。
性的なことにも積極的な女性。
そして、この二人の女の最大の違いは、
「死ぬ間際に、愛したこと/愛されたこと、どちらを思い出すか」
という問いへの答え。
光子は、愛したことを、
沓子は、愛されたことを、
思い出すと答えた。
実に”らしい”答え。
人を愛したことを思い出しながら死ぬと答える光子の心のありように惹かれる部分があったのだろうか、
豊はそれもあって、やはり結婚相手は光子で、沓子は火遊びの相手に過ぎぬという思いを再確認する。
しかし、沓子と逢瀬を重ねる内に、ただ豊を振り回していただけの彼女が、自分も愛したことを思い出すと決定的な変化を遂げる。
両極端だったからこそ割り切れていた二人の女との交わりが、一番大事なところで混線してしまった。
そのせいで豊かにはどちらかを選ぶことができない。
この物語を読んだ人の感想を色々と調べていると、主人公の男にとって都合の良いだけのナルシシズム溢れる作品だという主旨の評価と幾度となく出会った。
確かに、本作は男性向けの雑誌に連載されたということもあり、
男の願望を投影した要素も大きい。
光子と沓子は、それぞれ全然違うタイプの女性だけれど、
お互いに対局の位置で男の願望に最高に合致した女だろう。
その二人の理想の女性に挟まれ、肉欲に溺れ、仕事でも野心をかなえようとする。
こうした物語の骨子は、男性の自慰行為的な印象を受ける展開ではあるかもしれない。
ただ、この物語最大の問いかけである、「死ぬときに思い出すのは?」という一点においてそれは覆ると思う。
光子も沓子も、それぞれの思いから、この問いに明確に答えを打ち出せる。
だから迷わないし、納得して生きている。
その生き様は理想の女に相応しい素晴らしいものだ。
しかし、主人公の豊は終ぞ問いへの答えを明言できない。
「男ってダメね」
と、美しい女性たちに笑われているような気がしてくる。
表層的な部分では、男の願望を盛り込んだ男のための作品に見えるかもしれない。
だが、本当は、読めば読むほど、男がつらくなる、男に刺さる作品でもあるのではなかろうか。