こだま『夫のちんぽが入らない』の感想文
こだま『夫のちんぽが入らない』
「なあ、何読んでるん?」
友人からの無邪気な質問が飛んでくる。
場所は大学のラウンジ。
周りはけっこう人が多い。
友達同士で談笑する人。
スマホを開いて時間を潰す人。
分厚い学術書と格闘する人。
この空間で声高らかに「ちんぽ」というのもはばかれる。
ブックカバーをとって、表紙を見せてやった。
青みがかったあの洒落た表紙だ。
本書のタイトルを読んだ友人は言った。
「何なのこれ…」
全くだ。
とんでもないタイトルだ。
だが、語呂は良いし、何となく口にしたくなる。
昔、『声に出して読みたい日本語』という本があった。
語感の良い名言、名句、早口言葉なんかが並んでいて、小学生の僕はその本を読んで寿限無の名前を覚えたものだ。
『夫のちんぽが入らない』は寿限無と一緒だ。
何となく声に出して読みたくなる。
まことに秀逸なタイトルだ。
こんなぶっ飛んだタイトルの本書だが、内容は切実だ。
著者のこだまは私小説と言い、宣伝では実話だと紹介されている。
両者は、似て非なるもので、読者側はどんなスタンスで読書に当たればいいのか迷いどころだ。
ここだけはどっちなのかはっきりしてほしかった。
さて、この実話兼私小説の主人公の女性には大きな悩みがある。
もちろん、配偶者の「ちんぽ」が自身の女性器に入らないことだ。
処女というわけではないのだが、風俗嬢にキングとあだ名される夫の「ちんぽ」は入らない。
夫と出会ってからの20年間彼女を支配した悩みがつづられている。
男女の付き合いのなかで、性的な事柄は大きな要素の一つだろう。
だが、彼女にとって夫の「ちんぽ」が入らない問題は、性の問題にとどまらない。
自分以外の人たちは普通にできることが自分にだけできない。
これがでかい。
人間は生きているだけで実にいろんなことを当たり前のようにする。
起きて、顔を洗って、着替えて、家を出て、電車に乗って、通学・通勤して、人に会って、挨拶して、世間話をして…。
僕たちがやるべきことは無数にある。
そのやるべきことの大半はちゃんとできるのに、一つだけできないことがある。
みんなは平気な顔をしてこなすのに、自分にだけできない。
それが、こだまにとっては、「ちんぽ」を入れることだったのだ。
そうなるときつい。
しかも、性的でデリケートな部分で周囲に相談するのも難しい問題だ。
自分だけ。
その言葉が呪いになって、自分がなにか欠陥のある人間に感じ、自身を失う。
でも、この「自分だけ」って実は誰にでもあるのではないだろうか。
僕は、電話が嫌いだ。
全くもって原因不明なのだが、電話が無性に苦手なのだ。
友人から不意にかかってくる電話。
お店の予約。
バイト先での電話応対。
別にできないわけではないのだが、
電話をかける/電話に出るという行為に無性に心理的負担を感じるのだ。
なんでだ…。
自分だけ…。
他の人はみんな平気で電話をかける。
こんなことで、と笑われてしまうかもしれないけれど、長年、僕をひそかに苦しめている問題だ。
「ちんぽ」=「電話」 という図式だ。(笑)
皆さんにも、あるのではないだろうか。
こんなこと(笑)、と言われそうな、「こっそりできない」が…。
こうした自分だけの悩みと20年つきあい続けたこだまが見つけた結論が僕を楽にしてくれた。
ちんぽが入らない人と交際して二十年経つ。もうセックスをしなくていい。ちんぽが入るか入らないか、こだわらなくていい。子供を産もうとしなくていい。誰とも比べなくていい。張り合わなくていい。自分の好きなように生きていい。私たち夫婦には私たちのかたちがある。少しずつだけど、まだ迷うこともあるけれど、長いあいだ囚われていた考えから解放されるようになった。
『夫のちんぽが入らない』は、自分自身を「いいんだよ」と許してやる解放の一冊だ。