蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』の感想文
蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』
先日、2025年に大阪で万博を開催するというニュースを目にした。
1970年に開催された大阪万博では、「人類の進歩と調和」がテーマだったが、この55年で我々人類はどれほど進歩し、調和を遂げたのだろうか。
もちろん、政治的にも経済的にも賛否両論の決定だろうが、一個人としてはとても楽しみなイベントであることには変わりはない。
もっとも、僕が、「万博」と聞いて思い出すのは、小学生の頃に開催された愛知万博だ。
様々な国や企業が作り上げたパピリオンを巡って、最新の技術や各地域の伝統文化に触れることができた良い思い出だ。
大阪万博の月の石に代わる目玉は、マンモスだったのだろうか。
これに関しては、それほど並んでなかったし、一瞬で見終わって、「なんだこんなものか」と感じた記憶がある。
さて、前置きが長くなったが、今回紹介するのは、かつての大阪万博をテーマにした『水曜の朝、午前三時』
あらすじ
45歳の若さで逝った翻訳家で詩人の四条直美が、娘のために遺した4巻のテープ。そこに語られていたのは、大阪万博のホステスとして働いていた23歳の直美と、外交官として将来を嘱望される理想の恋人・臼井礼との燃えるような恋物語だった。「もし、あのとき、あの人との人生を選んでいたら...」。失われたものはあまりにも大きい。愛のせつなさと歓びが心にしみるラブストーリー。(Google Books より)
祖父がA級戦犯だという由緒正しい名家の生まれでとても優秀な直美が、許嫁との結婚を嫌い、大阪万博でホステスとして働くという形で一種の家出をする。
彼女は、大阪万博期間中に出会った臼井という青年と恋に落ちていく。
本作が過去を思い出す今際の直美が吹き込んだテープという体裁をとるため、
冒頭から読者は察することができるのだが、直美と臼井の恋は成就しない。
それは何故か。
臼井が朝鮮人だからだ。
(朝鮮人という言葉には問題があるかもしれないが、作中の表現に倣い用いることにします)
多くの若者が韓国のアイドルグループに熱狂する現代の感覚ではなかなか理解し難いが、これが理由だ。
臼井が通名で、本当は朝鮮人だという事実を知ってしまった直美は、臼井との交際を諦める。
その数舜前までは、許嫁を捨て、父の怒りを無視し、母に紹介し、結婚を意識していたのにも関わらず、だ。
この小説を読み終わったとき、母から聞いた話を思い出した。
これも1970年代の話だ。
僕の母方の親戚のとある男性が韓国籍の女性と結婚した。
僕が生まれるずっと前のことだし、母もまだ子供だったので詳しい経緯は分からないが、
その男性は親戚との関係はほとんど断絶したらしい。
そして結婚が決まったときには、その男性と両親が親戚中を訪ねまわった。
何故か。
謝罪のためだ。
一族に韓国人の嫁を迎えてしまうということを詫びてまわったのだ。
作中に印象的なシーンがある。
臼井と別れ実家に戻ってきた直美に、直美の母は何故かと怪しむ。
母は、紹介された臼井のことを気に入っていたのだ。
そんな母親が、臼井が朝鮮人だという事実を知り言うセリフがある。
「いい人だと思ったんだけれどねえ、私は本当にそう思ったんだよ。でも、朝鮮人なんて、それじゃあ初めからお話にもならないじゃないか」
人類の進歩と調和を謳った万博と共に生まれた恋が、凝り固まった差別に敗れた瞬間だと感じた。
『水曜の朝、午前三時』の直美と臼井の物語。
僕の親族のエピソード。
たぶんどちらも特別差別をしたという自覚はないんだろう。
差別的な判断をしているという客観的な自覚はありつつも、あえてそうしているという意思はない。
朝鮮人なのだから仕方ない、当たり前。
自分の心に沁みついた差別意識は、あまりにも体に馴染みすぎて認識するのも一苦労なのかもしれない。
十二国記、待望の新作!!
先ほど、Twitterを見ていたら…
小野不由美さんのファンタジー小説シリーズ『十二国記』の新作が発表されていました。
以下は、新潮社の公式サイトの引用です。
今日、十二月十二日「十二国記の日」に、嬉しいお知らせがあります。
新作の第一稿が届きました!
長年にわたりお待ちいただいた作品は、400字で約2500枚の大巨編になりました。
物語の舞台は戴国です――。
小野先生の作家生活30周年にあたる今年、このような大作を執筆いただいたことに感謝し、
待ち続けてくださった読者の皆様に御礼申し上げます。
これからお原稿の手直し、イラストの準備など本づくりが始まります。
よって、発売日はまだ決定しておりませんが、来年2019年に刊行されることは間違いありません。
第一報はこの公式サイトで発表するとお伝えしておりましたが、
奇しくも「十二国記の日」に、お届けできました。
今後とも詳しい情報を順次ご案内できるよう、邁進いたします。
引き続きご支援いただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
2018年12月12日 「十二国記」スタッフ一同
まだ、第一稿が上がってきた段階とのことで、校正など様々な工程を経てからの刊行になるので、実際に書店に並ぶのはもう少し先になりそう。
しかし長らく続編が出ていなかったシリーズのファンは、この知らせだけで狂喜乱舞のことでしょう。
僕が、このシリーズに初めて出会ったのは十数年前にテレビで見たアニメ版。
正直、かなり昔のことなので当時の記憶はあまりなく、もしかすると再放送の類を見ていたのかも…。
ファンタジーというと、指輪物語やハリーポッターのような西洋風だったり、ドラゴンクエストみたくゲームの世界観だったり、という作品が多いなかで、
『十二国記』の中国風のファンタジー世界は、幼少期の僕にとって、珍しくとても魅力的に映った。
ただ、残念なことに原作の小説は気になっていたものの読んだことがない。
かなり読み応えのある長編シリーズものということで尻込みしていたのだ。
これをきっかけにして、新刊が出るまでに既刊の読破に挑戦してみようと思う。
星野源『そして生活はつづく』の感想文
星野源『そして生活はつづく』
今日は、星野源のエッセイ集を紹介しようと思う。
最初に忠告します。
某ドラマの役どころそのままのイメージで星野源を認知していたいという方には、この本あまりおすすめしません。
携帯の料金を払い忘れる話しとか
ブラジャーのパットの話とか
自分のお腹が痛い話とか
この本は、実に下らない馬鹿話が満載のエッセイ集だ。
だけど、下ネタを交えた下らないエピソードのなかに、たまーに良い話を混ぜてくる。
星野源という人は本当にズルいと思う。
その中でも、「部屋探しはつづく」というエッセイが好きだ。
引っ越し先を探しに不動産屋に行ったら職業を聞かれた際に、
様々な職業を同時進行でこなす自身の生き方を考えるという話だ。
「二足の草鞋を履く」というとき、何故か否定的なニュアンスが込められることが多い。
色んなことに中途半端に手を出すのは良くない。
一つの事に専心することが美徳。
たぶん、長い歴史の中で日本人が培ってきた思想体系に影響された考えだ。
もちろんこれと決めたことにひたすら邁進する生き方は素晴らしいが、
だからってアレコレ手を出す人が劣っているというわけではないだろう。
星野源は、『ブルース・ブラザーズ』という映画を引き合いにだす。
音楽。踊り。馬鹿馬鹿しいアクション。毒のある笑い。エロ。人間の悲しさ。面白さ。いろんなジャンルのエンターテインメントがたくさん詰め込まれている。普通はどれか一つの要素を際立たせるために別の要素を控えめにしたりするのだが、この映画はそれをまったくしていない。常に様々な要素がぐちゃぐちゃと出てくる。どれも諦めていない。全部の要素がお互いにいい影響を与え合っている。
(星野源『そして生活はつづく』,79~80頁)
演技も、音楽も、文章も、映像制作も、
あらゆるやりたいことに手を出す星野源の生き方。
彼は、やりたいことを何一つ諦めていない。
才能があるとか、ないとか、そういうことで控えめにしない。
全部やって、生きている。
このスタイル、凄くカッコイイ!!
気になること、興味があること、やりたいこと…
中途半端が良くないからと諦めずに、全部やってみる。
そうすることで、そのごちゃまぜの生き方がどこかで噛み合って爆発的な成功を生むかもしれない。
僕もやりたいことを諦めないで生きていきたい。
→おすすめのエッセイを紹介した記事です。
ぜひ、併せて読んでみてください。
鴨志田一『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の感想文
2019年の秋は、アニメ好きの20代前半の人間にとっては待望のシーズンだと思う。
僕たちの世代は、深夜アニメの人気が爆発的に拡大する時期に学生時代を送った。
そのため、かなり幅広いタイプの人間がアニメという娯楽に日常的に触れていたのではないだろうか。
そんな僕らの世代が中学高校に通っていた頃に、人気だった深夜アニメの超人気タイトルの続編が放送されているからだ。
『とある魔術の禁書目録』シリーズと『ソードアートオンライン』シリーズの続編。
学生時代に友人に勧められてアニメを見ていた僕にとっては懐かしい二作だ。
大学に入ってからはあまりアニメを見ていなかった僕だが、ワクワクして秋を迎えた。
だが、12月の今、意外なことに今期一番僕を楽しませてくれるアニメは、この二作ではなかった。
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』という出落ち感満載のタイトルを聞いて最初は躊躇っていたのだが、周りに繰り返し進められて見てみると一瞬でハマってしまった。
そして一昨日にはついに、原作ノベルにも手を伸ばしてしまった始末だ。
ということで今日は、鴨志田一の『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の感想を書いてみようと思う。
話の筋は、ぶっちゃけよくある話だ。
主人公の男子高校生の周囲に、トラブルに悩まされている女の子たちが現れ、それを助けて関係が深まっていく。
本作の特徴を挙げるとしたら、そのトラブルの中身だろうか。
ヒロインたちは、「思春期症候群」と名付けられた不思議な現象に悩まされる。
症状は様々で、人々から見えなくなってしまったり、今日を繰り返し明日に進まなくなったり、自分が二人になったり…
共通するのは、それが彼女たちの思春期特有の悩みに直結しており、精神的な要因が大きいということ。
怪奇現象に悩むヒロインの少女たちは、自分の身に起こる「ありえない」出来事を家族や友人にもなかなか相談なんてできず、結局は主人公の男の子の手で救われる。
「思春期症候群」というアイデア自体はなかなか興味深いが、作品全体のプロット自体は割と普遍的な本作がどうしてこうも面白いのだろう。
まず、理由の一つはアニメ版の質の高さだろうか。
アニメーションの絵がきれいで、豪華な声優陣が演じるヒロインたちは誰もが可愛らしいキャラクターだ。
実際僕自身、アニメが入口なわけで、アニメとしての魅力が素晴らしいというのは一つの理由だ。
だが、それだけじゃない。
僕が本作を気に入った理由は原作のライトノベルを読んでよく分かった。
この作品は、全体的に軽いタッチで、青春の明るい側面を映し出しているのに、
視座が闇の中だからだ。
青春という光を、暗い日陰の視点から描いている。
青春の暗い側面を描く話はよくあるが、この話はそうではない。
あくまで描かれているのは明るいところ。
ただ、その明るいところを眺めている視点がどうしようもなく暗闇で、
10代の思春期特有の悩みがギュッと凝縮されている。
僕は、20歳を過ぎて、いくらか精神的に成長し、人間関係とかにも多少余裕を持った考えができるようになったと思う。
しかし、この本を読んでいる最中は、
数年前の高校時代に引き戻されて、
今よりもっと不器用な、些細な悩みに真剣に苦しんでいた頃の僕になって物語を鑑賞させられる気分になる。
たぶん、誰だって思春期には人それぞれの悩みがあって、でもそんな悩みは今となっては黒歴史で思い出したくもない。
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は、そんな僕らを無理やり思春期に立ち返らせる。
余談
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』のアニメのOPを歌っているのは、三人組ガールズバンドのthe peggies。
このバンド、なかなかいいんですよ。
メジャーデビューをしてからまだ一年ほどしかたっていないため知名度はいま一つだが、アニメとのタイアップもあってこれからどんどん人気になっていくと思う。
僕のお気に入りガールズバンドの一つなので、これを機に皆さんにもぜひ聞いてもらいたい。
辻仁成『サヨナライツカ』の感想文
辻仁成『サヨナライツカ』
最近、忙しくて感想文の更新が滞りがちですが、本自体はたくさん読んでいます。
本を読む時間があるなら、数千字の文章を書く時間程度確保できるだろと思われるかもしれない。
電車での移動や、大学の授業間の休み時間などの隙間をやりくりして、なんとか読書時間だけは確保できているという状況で、パソコンに向かってゆっくり文章を書く時間はなかなか確保できず…といった具合なのです。
まあ、つまらない言い訳はさておき、今日は辻仁成の『サヨナライツカ』をとりあげたい。
身も蓋もない言い方をしてしまうと、浮気の話。
既に婚約をしている男の浮気なので、不倫といった方が正確なのだろうか。
芸能人の浮気やら、不倫やらのニュースが世の中をにぎわせる昨今、世間の人々の浮気や不倫への忌避感は相当なもの。
もちろん、貞淑さは美点であり、浮気は良くないこと。
だからその価値観は正しい。
ただ、ことに創作の場においては不倫や浮気が必要悪になることもある。
一人の異性を愛すだけでは、単調な物語となるかもしれないが、そこに対比的なもう一人の人物を登場させることで物語は色づく。
よく、学校の国語の授業で「二項対立」という概念が説明される。
これは主に、評論の世界で使われる手法だが、小説にも当てはまる。
極端な二人の女性の対比が、物語の論点を明白にし、ストーリーを進展させる。ことがある。
この『サヨナライツカ』という小説はその典型だ。
主人公の豊の目の前に提示される女は、光子と沓子(とうこ)の二人。
光子は婚約者。
愛嬌があり、可愛らしい。
東大の院を出ており、教養がある。
男の二歩後ろを歩くような控えめで古風な女。
良妻賢母。
そして性的なことには控えめで奥ゆかしい。
沓子は浮気相手。
目を引くような美人で、色気がある。
自由奔放で、豊を引っ張って行くタイプ。
性的なことにも積極的な女性。
そして、この二人の女の最大の違いは、
「死ぬ間際に、愛したこと/愛されたこと、どちらを思い出すか」
という問いへの答え。
光子は、愛したことを、
沓子は、愛されたことを、
思い出すと答えた。
実に”らしい”答え。
人を愛したことを思い出しながら死ぬと答える光子の心のありように惹かれる部分があったのだろうか、
豊はそれもあって、やはり結婚相手は光子で、沓子は火遊びの相手に過ぎぬという思いを再確認する。
しかし、沓子と逢瀬を重ねる内に、ただ豊を振り回していただけの彼女が、自分も愛したことを思い出すと決定的な変化を遂げる。
両極端だったからこそ割り切れていた二人の女との交わりが、一番大事なところで混線してしまった。
そのせいで豊かにはどちらかを選ぶことができない。
この物語を読んだ人の感想を色々と調べていると、主人公の男にとって都合の良いだけのナルシシズム溢れる作品だという主旨の評価と幾度となく出会った。
確かに、本作は男性向けの雑誌に連載されたということもあり、
男の願望を投影した要素も大きい。
光子と沓子は、それぞれ全然違うタイプの女性だけれど、
お互いに対局の位置で男の願望に最高に合致した女だろう。
その二人の理想の女性に挟まれ、肉欲に溺れ、仕事でも野心をかなえようとする。
こうした物語の骨子は、男性の自慰行為的な印象を受ける展開ではあるかもしれない。
ただ、この物語最大の問いかけである、「死ぬときに思い出すのは?」という一点においてそれは覆ると思う。
光子も沓子も、それぞれの思いから、この問いに明確に答えを打ち出せる。
だから迷わないし、納得して生きている。
その生き様は理想の女に相応しい素晴らしいものだ。
しかし、主人公の豊は終ぞ問いへの答えを明言できない。
「男ってダメね」
と、美しい女性たちに笑われているような気がしてくる。
表層的な部分では、男の願望を盛り込んだ男のための作品に見えるかもしれない。
だが、本当は、読めば読むほど、男がつらくなる、男に刺さる作品でもあるのではなかろうか。
Wikipediaを引用するということ
最近人気のとある本を念頭においたお話なのは、皆さんもお分かりでしょう。
ただ、僕自身は、この本を読んでいないし、買ってもいない。
未読の本の感想なんて書けない。
批評なんて以ての外だ。
だから、この本のことを個別にどうこう言うつもりは全くない。
今回は、
「大学」という場所において、引用というものをどう考えているのか
ということをお話ししたい。
まず、大前提がある。
それは、「コピペ厳禁」というものだ。
これはたぶん、どのようなシーンでも当然のことだと思う。
人の書いたものを勝手にコピーして、それを貼り付けたものを自身の書いたものとするのはありえない。
だが、大学において先生方が「コピペはダメですよ」と言う時、それはこの言葉通りだけの意味ではない。
まず引用という考え方について。
引用は必須だ。
なんの根拠もなく自分の考えだけ書いたって、論文やらレポートやらとして機能しない。
先行研究の論文、原典などを参照し、その一部を引用するというのは大切な作業だ。
だから、引用することに関しては特に問題はない。
気をつけなければいけないのは二点。
①絶対に引用元を示すこと。
著作者の名前、書名、出版社の名前、頁などをしっかりと示すことが大切だ。
もし、これがなければ先生方には怒られ、突っぱねられるし、剽窃だと言われても文句は言えない。
Webの資料を参照する場合にも、そのサイトのURLをちゃんと添えなければならない。
②あくまで引用は添え物であるということ。
提出するレポートや論文の本体はあくまでも自分の意見だ。
引用は結構だし、先行研究を紹介するのも問題ない。
しかし、その引用部分が主になってはいけない。
自分の意見の補強材料として引用を使うのが本来のあり方で、引用部分が本体になってしまっては全く意味が無い。。
次にWikipediaを引用するということ。
文学部の先生方によく、「ネットの資料を参考にする時は気をつけてください」と言われる。
何も、先生方がネットを軽んじているわけではない。
ネットの情報は玉石混交だからだ。
もちろん、書籍の形をとった情報にも質の上下はあるが、ネットの場合はさらに顕著だ。
特に、Wikipediaは多くの人が編集可能だ。
最近だと、山手線の新しい駅である高輪ゲートウェイの記事において、「高輪ゲイ駅」みたいに書き換えるイタズラがあったらしい。
このようなイタズラばかりではないが、誰でも編集可能なWikipediaでは情報の信頼性に疑問がある。
もちろん、Wikipediaは便利だ。
参考にするのは問題ないし、何かを調べる入り口にはもってこいだ。
だが、完全に信じていい資料では無い。
そのため学問の世界では、Wikipediaを引用することはないし、そこに書いてある情報をそのまま使うことも基本的にはない。
ありえないと言ってもいい。
ここまで書いてきたことは、あくまで文学部という限定的な環境で引用とかWikipediaとかについて、どう考えられているか、というお話です。
もちろん、他の学問分野や、出版界では考え方が少し違うかもしれません。
文学部で勉強してる人たちはこう考えているんだなという程度に受け止めてくだされば幸いです。
『人間失格』の映画化
スマホでネットニュースを眺めていたら、小栗旬さん主演で『人間失格』が映画化されるという記事を見つけた。
どうやら、『人間失格』時代を映像化するというよりは、
小栗旬さんが演じる太宰治に焦点をあてて、『人間失格』の誕生秘話を描くらしい。
作品時代は凄く楽しみだし、太宰治という個性的な小説家をどう描写するのか非常に興味がある。
ただ、僕がこのニュースを見て一番気になったのは、
『人間失格』の誕生秘話を描く映画を、
『人間失格』の映画化と言い切っても多くの人が違和感を感じないだろう。
という点だ。
『人間失格』では、大庭葉蔵の手記が中心となる。
この手記の書き出しが、例の「恥の多い人生を…」というものだ。
彼が、道化を演じて生きてきた過去を語るこの小説は、私小説だが、同時にフィクションだ。
もちろん、太宰治の過去の体験が色濃く反映されていることは間違いない。
だが、太宰治が書いた、大庭葉蔵の手記であって、太宰の手記ではないのだ。
日本国内のみならず、相当するの人に読まれてきた本書だが、
その多くの人は、無意識のうちにこれを太宰の自伝的な作品だと感じているのではないだろうか?
だからこそ、『人間失格』の誕生秘話を描く太宰治が主役の映画と『人間失格』の映画がほぼ同義として受け入れられる。
もちろん、われわれ読者が、これを太宰の独白だと読み取ることは、太宰の意図する所ではあるのだろうが…。
さて、『人間失格』では、葉蔵は自信が「お道化」を演じてきたと語る。
それを、太宰治が、その人生において同じく「お道化」を演じてきたと読み取るのは本当に正しいのだろうか。
当然、太宰の実体験や、価値観にそういう側面はあったのだろう。
しかし、太宰治と大庭葉蔵は完全なイコールで結んで良いのか??
という問題には疑問が残る。
葉蔵が道化を演じてきたように、太宰治は自身の小説を通して、「道化を演じ苦悩する葉蔵」を演じたのかもしれないと考えたことある。
僕自身、太宰研究自体に真剣に向き合ったことはなく、自分の読書体験と聞きかじりの知識しか有していない。
だからここで書くことに学問的な意義とかそんな正当性はなく、何となくそういう感想を抱くというだけのことだ。
今回の、『人間失格』の映画化、という出来事を通じて、
太宰治がどんな考えでこの作品を書いたか、
そして、僕達のような読者は、この作品を如何なるものと見なしているのか、
を考えても面白いかもしれない。