斎藤環『承認をめぐる病』の感想文
斎藤環『承認をめぐるる病』
食べたい、飲みたい、勝ちたい、出世したい、眠りたい、笑いたい、友人と遊びたい、恋人が欲しい…
僕たちは色々な「したい」を抱えて生きている。
僕たちが有する様々な欲求のなかに、「自己承認欲求」というものがある。
自分という人間を、認めて欲しい。
そして、自分自身を認めたい。
SNSの隆盛とともに、近年、ますます存在感を増す「承認」というキーワード。
この「承認」とはいったい何だろうか、
という問題に精神医学の立場から答えたのが、
この本は、サブカル文化に言及する雑誌に寄稿したものから精神医学の専門誌に掲載された論文まで、色々なタイプの原稿をまとめ上げたいわゆる論文集だ。
一冊全体でのまとまりにやや欠ける部分があるし、章ごとに難易度にばらつきがある。
そのため、精神医学に関しては素人の僕では、十分に理解できたとは言い難いのだけれど、こんな自分でもわかった範囲で感想を書いてみようと思う。
冒頭でも書いたけれど、僕たち色々な欲求を抱えているし、それを満たしながら生きている。
生きているだけで、食事や排泄、睡眠を行うし、知人・友人と会話をする。
これらだって大切な欲求だ。
そして、基本的に毎日Twitterに触れる生活を送る僕は、そこで「いいね」や「RT」を獲得し、承認欲求を満たす。
だいたい今まさに書いているこのブログだってそうだ。
僕の場合は、「本を読んだ感想を言語化し、糧としたい」という欲求がブログを書くに至る根本的な欲求なのだけど、
それだけだったら別に日記に書いて鍵のかかった引き出しにしまい込んでおけばいい。
だけど、僕はブログという手段で世の中に発信する。
そこにはきっと、「承認」といキーワードが絡んでいる。
自分の書いた感想を人に読んでもらいたいし、レスポンスがもらえたらもっと嬉しい。
「いいね」がつくと満足するし、「RT」して少しでも拡散されたらテンションが上がる。
ブログを通じ、Twitterを通じ、誰かに認めてもらいたいという「かまってちゃん」な自分がいて、これこそブログを書く理由なのだろうと思う。
ただ、僕は、この「かまってちゃん」を好意的に捉えている。
顔も知らない誰かが、僕が書いたものを読んで、そこに何かを感じ、レスポンスをしてくれる。
そして、僕はそれを喜ぶ。
このサイクルに僕は「張り合い」を覚える。
反応があるから、承認してもらえたと感じ、それがまた次につながる。
こうした意味で、承認を求める僕のなかの「かまってちゃん」は良き友であると思っている。
しかし、ここに一つの罠がある。
何かやりたいことがあって、そこでかまってもらえて喜び、「張り合い」に繋げているうちは良い。
目的があって、そこに付随する手段として、もしくは、二次的な「ついで」の目標として、承認欲求と向き合っているあいだは問題ない。
この手段と目的がぐちゃぐちゃになったときがまずい。
承認が第一の目標になって、承認してもらうために、何かをする。
こうなったらまずい。
これこそ本書のタイトルにもなっている「承認をめぐる病」という状態なのではないだろうか。
斎藤環は、こうした承認に関する諸問題を、
アニメやゲームといったサブカル文化、家庭内暴力、秋葉原の通り魔事件などを引き合いにいくつかの視点から解説していく。
その中で繰り返し登場するのが「キャラ」という概念だ。
「キャラ」について説明する部分をここで引用したい。
キャラクターといっても、必ずしも「性格」を意味しない。「キャラ」は本質とは無関係な「役割」であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。それゆえ、所属集団や人間関係が変わると、キャラまで変わってしまうことも珍しくない。
言っていることは難しいのだが、
僕らはこの説明をある種、本能的に理解できてしまうのではないか。
それほどに、僕らは「キャラ」と密接に生きている。
自分という人間が「キャラ」を装って生きるから、承認の問題が余計ややこしくなる。
仮に認められても、それは「キャラ」として認められただけかもしれないし、自分は認められていないかもしれない。
自分が認められても、それは自分が好きな自分じゃなくて、自分の理想を投影した「キャラ」としての承認を得たいのかもしれない。
こうした複雑な自分と「キャラ」と承認の構造は非常に難しい。
筆者は、若者の就職を引き合いに、承認欲求が根底にあって欲求のために行動をすると説く。
様々な物事を容易に満たすことができるほどに物質的に満たされた現代を生きる僕たちにとっての「いかに承認されるか」という問題は、
遠い過去を生きた人類にとっての「いかに雨風をしのぎ、今日の食糧を得るか」という問題と、
同じような意味を持って向き合うべき課題なのかもしれない。