夏目漱石『三四郎』の感想文
夏目漱石と初めて出会ったのは中学1年生の頃だ。
最初は、『坊ちゃん』を読んだ。
大衆的で、エンタメとして優れたこの作品はかなり面白かった。
そして、『吾輩は猫である』や『こゝろ』と代表作を読んでみた。
どの作品も素晴らしく、中学時代の僕は、「ああ、流石は日本を代表する文豪だ」と背伸びして偉そうな感想を抱いたものだ。
『三四郎』もその頃読んだ。
だが、この小説はあまり印象に残らなかった。
田舎の中学という狭い世界で生きていた当時の僕にとって、上京する主人公の心中を理解するのは難しく、都会の女性との恋愛模様もいま一つピンと来なかった。
それから何年か経って、高校を卒業し、大学に入り、地元を離れ東京で一人暮らしをするようになった。
もう一度、『三四郎』を読んでみた。
僕は圧巻された。
ああ、この小説は凄い。
田舎の高等学校を出て、東京の大学に入学した主人公の見るもの感じるもの全てが、僕の体験とリンクした。
夏目漱石の生きた時代とは、世相も文化も科学技術も何もかもが全然違うのに、それでもそこには人間の普遍的な何かが描かれていると感じた。
その典型が冒頭にある。
主人公が田舎の熊本から電車で東京に向かうシーンだ。
地元を離れる不安や、東京の暮らしへの期待、そして大学で学ぶことになる自分への自負。
そうした複雑な感情を抱える主人公が、電車内で不思議な男と乗り合わせる。
その男は、会話の中で、日本は亡びると言うのだ。
そして以下の引用部分に続く。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を想ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分かれるまで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、この位の男は到る処に居るものと信じて、別に姓名を訪ねようともしなかった。
まだ、東京についていないにも関わらず強烈な洗礼を受ける。
この男の言葉に、これまでの価値観とかが一瞬のうちに全てひっくり返されてしまう。
だけど、それを簡単に認めてしまうわけにはいかない。
悔しさもあったのだろう。
だが、悔しいけど、もう影響されてしまった。
主人公にできる抵抗は、これくらい東京では当たり前で、自分もすぐにそこに染まると信じることくらいしかなかったのだろう。
メディアやインターネットが発達した現代では、東京と地方に価値観の隔たりなんて無いように思われる。
僕もそう信じていた。
だが、いざ上京し、東京と交わるとそれまでには聞いたこともないようなことを言う人間がいる。
わずか最初の十数頁で主人公とシンクロしてしまった僕は、そこからは彼と共に迷うことになる。