『人間失格』の映画化
スマホでネットニュースを眺めていたら、小栗旬さん主演で『人間失格』が映画化されるという記事を見つけた。
どうやら、『人間失格』時代を映像化するというよりは、
小栗旬さんが演じる太宰治に焦点をあてて、『人間失格』の誕生秘話を描くらしい。
作品時代は凄く楽しみだし、太宰治という個性的な小説家をどう描写するのか非常に興味がある。
ただ、僕がこのニュースを見て一番気になったのは、
『人間失格』の誕生秘話を描く映画を、
『人間失格』の映画化と言い切っても多くの人が違和感を感じないだろう。
という点だ。
『人間失格』では、大庭葉蔵の手記が中心となる。
この手記の書き出しが、例の「恥の多い人生を…」というものだ。
彼が、道化を演じて生きてきた過去を語るこの小説は、私小説だが、同時にフィクションだ。
もちろん、太宰治の過去の体験が色濃く反映されていることは間違いない。
だが、太宰治が書いた、大庭葉蔵の手記であって、太宰の手記ではないのだ。
日本国内のみならず、相当するの人に読まれてきた本書だが、
その多くの人は、無意識のうちにこれを太宰の自伝的な作品だと感じているのではないだろうか?
だからこそ、『人間失格』の誕生秘話を描く太宰治が主役の映画と『人間失格』の映画がほぼ同義として受け入れられる。
もちろん、われわれ読者が、これを太宰の独白だと読み取ることは、太宰の意図する所ではあるのだろうが…。
さて、『人間失格』では、葉蔵は自信が「お道化」を演じてきたと語る。
それを、太宰治が、その人生において同じく「お道化」を演じてきたと読み取るのは本当に正しいのだろうか。
当然、太宰の実体験や、価値観にそういう側面はあったのだろう。
しかし、太宰治と大庭葉蔵は完全なイコールで結んで良いのか??
という問題には疑問が残る。
葉蔵が道化を演じてきたように、太宰治は自身の小説を通して、「道化を演じ苦悩する葉蔵」を演じたのかもしれないと考えたことある。
僕自身、太宰研究自体に真剣に向き合ったことはなく、自分の読書体験と聞きかじりの知識しか有していない。
だからここで書くことに学問的な意義とかそんな正当性はなく、何となくそういう感想を抱くというだけのことだ。
今回の、『人間失格』の映画化、という出来事を通じて、
太宰治がどんな考えでこの作品を書いたか、
そして、僕達のような読者は、この作品を如何なるものと見なしているのか、
を考えても面白いかもしれない。