石原慎太郎『太陽の季節』の感想文
石原は、1999年から2012年まで四期に渡り都知事を務めた。
そのため、僕の少年時代に登場する都知事は常に石原慎太郎だった。
物心ついたころからずっとそうだった。
たぶん僕と同世代の若者にとっては、
石原慎太郎=東京都知事で、東京都知事=石原慎太郎の公式が成立している。
「あ、他の人もなれるんだ」
と、よく考えれば当たり前のことに驚いた。
正直言って、彼に対しては小説家としてのイメージはあまりない。
芥川賞も受賞した有名な小説家であることは知識としては有しているが、かなり違和感がある。
これがもっと若い世代までいくと、都知事としてインタビューに答える姿の印象が薄れ、単に事実として彼が小説家だと受け入れられるのだろうか。
余談が長くなったが、僕にとっての石原慎太郎像とはこんな感じであるため、彼の作品を初めて読んだのもかなり遅かった。
20歳になって、やっと『太陽の季節』を読んだ。
大学進学を機に、上京し、一人暮らしを始め、しばらくたって慣れてきた。
そういうタイミングだ。
多少なりとも、「遊び」は覚えたし、一方であまりに派手に「遊ぶ」連中とはどこか合わないなと分かってきた時期だ。
この時期の僕にとって、『太陽の季節』はなかなかに強烈な作品だった。
いや、正直に言おう。
強烈に理解できない作品だった。
作中の登場人物にこれっぽっちも感情が入っていかない。
主人公の竜哉にも、その兄にも、ヒロインの英子にも、彼らを取り巻く友人たちにも…
どの登場人物の心境も理解できない。
普通、どんなジャンルの小説でも、作中の人物に多少自己を投影できる。
古い海外の作品だって、時と場所を超えた人間の本質、と大仰に語るのがふさわしいのかは自信がないが、どこか理解できるものはある。
サイコパスな殺人鬼だろうと、自分とは違うとは思いつつも、どこか理解できる部分もあったりするものだ。
だが、『太陽の季節』は本当に分からない。
数十年前の日本の富裕層の若者。
たぶん、彼らの感覚と僕の感覚とは途方もなく離れている。
遊びに使えるお金の多寡だとか、育った環境だとか、世相だとか、
そういう全てを超えて「違う」感性で生きていると感じた。
何となく始めた拳闘に打ち込み、ナンパした女と体を重ね、金のかかりそうな遊びをする。
文字にすると、今の時代だって似たようなことをする若者はいるはずなのに、
実際に『太陽の季節』を読んでしまうと、「違う」という印象を抱く。
しかしながら、作中の人間が理解できないにも関わらずこの作品には引き込まれる。
『太陽の季節』全体に通う地脈のような、
その時代の石原慎太郎が抱く価値観はとんと理解できない。
でも、この短編は読み手を引き付ける。
最後の一頁、英子の葬式に行き香炉を投げつけ、その後でサンドバッグにいろんなものをぶつけるシーン。
これもあまり理解はできない。
だけど妙に心に残る。
芥川賞受賞作家の筆力故だろうか。
うーん。間違ってはいない。
たぶんそれもある。
だけど、作家の筆の力に答えを求めるのは安直にすぎる。
では、どうしてだろう。
そうやってずっと悩んでいた。
なんで、育ちも人間性も境遇も行動も、自分とは全然違う『太陽の季節』魅せられてしまうのだろう。
登場人物の気持ちなんてちっとも入ってこないのに。
この問いの答えが最近やっと分かった。
正しくは、分かった気がする。
違うと思っていた、作中の人物と僕自身にやっと共通項があった。
僕も彼らもどこか「空っぽ」な部分があるから。
それが僕にとっての答え。
もちろん、その由来は全然違う。
裕福な家庭に生まれ、放蕩生活(10代にも関わらず放蕩という表現に違和感がない)を送る主人公の心には虚無感がある。
男友達や女に囲まれ、遊ぶ金もある。
肉体的にも精神的にも快楽を得ている。
好きなように遊んでいる。
それでもどこか退屈で、どこか「空っぽ」な部分がある。
僕は、そして、僕を含む同世代の若者はどうだろうか。
たぶん、生まれたときにはバブルは終わり不景気だった。
そして、ずっと不景気の中で生きてきた。
実際の景気がどうだったかはともかく、なんとなく不景気っぽい社会風潮だったとう言い方の方が適当だろう。
そして、物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが大事だだとか、学歴よりも個人の資質だだとか…
大人たちは、僕らに対して、より幸せ具合を測る難易度を引き上げてくる。
インターネットやSNSみたいな社会の根底部分での変化もある。
そういったものに僕らはどう向き合えばいいのかわからない。
若者には向上心がない、なんて聞き飽きた説教のお題目がある。
向上心がないんじゃなくて、なにが上なのかも分からないんだ。
だから僕らは何をやっても「どうせ」と思い、「空っぽ」を抱えている。
何もこれは、僕らの世代だけの、もしくは僕だけの特別だと言い張るつもりはない。
たぶん、どの世代に生まれても、どの環境に生まれても、
違う理由で勝手に「空っぽ」を作る。
若者とはそう生き物なんだと思う。
『太陽の季節』という作品は、読む人によって、
理解できるかできないか、
感情移入できるかできないか、
は分かれても、その根底の「空っぽ」だけは共有できる物語だ。
この小説は、時代を超えて若者に「刺さる」