中村文則『教団X』の感想文
中村文則『教団X』
この小説の感想を語るのは非常に難しい作業になる。
読み手の評価も極端になりがちだ。
理由は3つある。
- まず、「宗教」という難しい題材だから。
- そして、性的な描写があまりにも過激だから。
- 最後に、あまりに思想的な語りの部分が多いから。
そのため、読んだ人の感想もまちまちになる。
5段階評価をするなら、☆1と☆5に超極端に分かれると思う。
「それなりに楽しめる良作だったね」なんて感想を抱く人はあまりいないはずだ。
まず、宗教というテーマについて。
宗教というのは非常に難しい。
非科学的で怪しい雰囲気がするとか、カルト宗教の悪評とか、
取り扱い注意のレッテルが貼られて、真面目に議論するのは危険だ。
だから、みんな、宗教の話はしないし、宗教を学問として捉え学ぼうともしない。
そういう日本社会において、この作品はどう読み取るのが良いのだろうか。
といいつつ、僕も宗教学を専門的に学んでいるわけではない。
この半端な知識で偉そうに感想なんて書こうものなら、
どこで間違え、どこで大きな地雷を踏みぬくか分かったもんじゃない。
だからといってビビッて何も言わないというのもつまらない。
この本で物語となるのは二つの宗教。
両方とも、開祖は存命で新しい宗教。
一方は、寄り合い的な感じで教祖?の老人のお話を聞くだけ。
もう一方は、宗教施設に信者が集団で暮らすカルト教団。
カルトという言葉も繊細で使い方には注意がいる言葉だが、この場合はカルトと呼んで問題ないでしょう。
こうした対照的な教団を読者に示しながら、私たちにとって、信じるって何なのかと問いかけてくる力がこの作品にはある。
何かを信じる作中の人物たちは、僕たち読者と何が違うのか。
もちろんこの問に正解なんてない。
けれど、中村文則は強く踏み込んで『教団X』を書ききった。
そして、過剰な性的描写について。
こんなに露骨に書く必要があるのか?という感想が多く寄せられている。
たしかに言いたいことはわかる。
かなり過激だ。
ただ、僕は書く必要があると思う。
少なくとも、作者にとっては絶対に必要なんだと思う。
中村文則は、教団内部の人々が信じることで獲得する異質さの表現を必要としていたんだと思う。
普段日常で、社会とか法律とか経済とか、こういう規範で縛られている僕たち。
ただ、教団の人たちは違う。
こうした規範から解放され、教団の、宗教内部の規範に縛られる。
ここに上下はない。
ただ、従うルール、信じるルールが違うというだけ。
そして、規範の違いを明確に示すのが性の分野だ。
たぶん、本能的な行動の中で、現在社会で一番縛られているのは性欲だ。
レイプはだめ。貞操は守るべき。下ネタははしたない。
僕らはこういう規範で生きている。
ただ、作中の信者はそうじゃない。
違う規範で生きているから、性との向き合い方も違う。
だからこそ、僕ら「普通の人」と信者が違う規範を採用していることが鮮明になる。
そのための装置として過激なセックスシーンは必要不可欠なのではないかと思う。
そして、作中の語りの部分について。
ここまで述べてきた宗教の話。
それ以外にも、貧困とか、政治とか、仏教の解釈とか、釈迦の話とか。
本当に色んな話が出てくる。
これが、全て中村文則の思想と=で結べるのかはわからない。
この熱量をもった語りこそ、本作の本体に他ならないと思う。
だから、この小説からは作者本人があまりに色濃く感じ取れる。
フィクションとして、物語として見れなくなる。
中村文則が夜中に一人で内面を書きなぐったんじゃないか。
そう思わせるほどに、ぐちゃぐちゃと作者が透けて出てくる。
これが読む人によって違う受け取り方をされる。
ちなみに、僕はどっち派閥か。
結論から言うと、☆5だ。
だが、小説としての面白かったかというと微妙なところだ。
単にストーリーやキャラクターの描かれ方を楽しむ、という視点なら平凡な出来栄えに思う。
ただ、作者が書きたいことを書きまくった、という点においては本当に楽しめる。
人間が内面を赤裸々に吐露するとき、そこには趣味の悪い娯楽が生まれる。
そういう点でこの作品は最高級のエンターテインメントであると思う。
だからこその☆5だ。