五木寛之『親鸞』の感想文
古い時代の話で、しかも、宗教がテーマ。
読みにくい小説オーラが立ち込める本書。
しかし、意外なことに、読んでみるとスラスラ読める。
月並みに表現だが、読みやすくて面白い。
五木寛之の『親鸞』という小説は、もちろん実在の人物・親鸞を描いたものだ。
では、皆さんは親鸞という人のことをどのぐらい知っているだろうか。
学生時代の、日本史の授業中に居眠りをしていなければ、
この3つのキーワードぐらいはパッと思いつくだろうか。
そもそも親鸞というお坊さんは、日本史に登場する数々の偉人の中でも、とりわけ現代の私たちの生活に大きな影響を残した人物だ。
ご実家で不幸があり、葬式をするとなると浄土真宗のお坊さんを呼ぶご家庭も多いはず。
(ちなみに、僕の父方の家系は真宗大谷派です。一応。)
末法の世というのは、仏教思想にある終末のことです。
仏の教えはあるものの、僧侶も戒律を守らず、悟りを開くものもいない。
仏教的北斗の拳ワールドです。
実際、そのころの日本は戦乱や飢饉が相次ぎ苦しい時代。
そんな苦しい時代に生まれた親鸞は、比叡山に入り修行を始める。
結構なエリートコースを歩んでいた親鸞だが、
法然の教えを知って弟子入りしてしまう。
この法然の教えが、いわゆる浄土宗。
「南無阿弥陀仏」を唱えれば死後は救いがあるよという、超簡単な教えで、1000年前の人々にとってはめちゃくちゃ画期的。
当然?、旧来の仏教者たちは反発する。
そのため、法然や親鸞は処罰を受け、親鸞は越後(今の新潟)に流されることに…。
処罰を受けたからって親鸞の信じるところは変わらず、その後も修行や布教は続行した。
その中で、有名な『教行信証』を書き…。
こうして、法然の浄土宗を、親鸞はさらに発展させ浄土真宗を体系化した。
(便宜的に発展という言葉を用いたけど、浄土宗より浄土真宗が優れているとかではないです。日本仏教史の難しい話になるので割愛します。)
その後、89歳まで生きてなくなりました。
当時の人としては異例なほどの長生きです。
五木寛之の『親鸞』では、子供のころに始まり、越後に流されるときで終わる。
越後に流されたのが、30代中盤のはずだから、親鸞の人生の半分が描かれている。
親鸞という人は、『教行信証』以外にも自分の考えや教えをたくさん書いたのに、
自身の人生について自伝的な事柄はあまり書いていない。
『親鸞』に書かれている若いころの史料は実はあまり多くない。
だから、五木寛之の描いた親鸞はどこまで正しいかは正直分からない。
しかし、この本に描かれている親鸞の苦悩は本物だったに違いない。
本書のテーマもこれだ。
先に述べた末法の世は苦しい。
だから、悪いことをしないと生きていけない人はたくさんいる。
彼らは、恵まれない環境で苦しみながら悪事に手を染めている。
しかし、悪人故、それまでの仏教では死後にすら救いはない。
そうした人々の心を救済するのが、悪人ですら念仏を唱えれば死後には救いが待っているという考えだ。
(かなりざっくりした説明なので不正確な部分もあります。すいません。)
現代日本に例えると、
貧乏なあまり犯罪に手を染めてしまった人、
法には触れないまでも、グレーゾーンの仕事をしている人、
ワーキングプア層で忙しくて、とても仏に祈りお布施する余裕がない人、
こうした悲しい境遇の人々の心を救済したい。
これが、親鸞の思いだ。
だが、その思いと裏腹に、作中の親鸞自身も普通の人間のように欲に誘惑され、いろんな悩みを抱えている。
歴史に名を残す聖人としての親鸞。
悩み苦しむ等身大の『親鸞』。
どちらも本当の親鸞の姿だ。