Wikipediaを引用するということ
最近人気のとある本を念頭においたお話なのは、皆さんもお分かりでしょう。
ただ、僕自身は、この本を読んでいないし、買ってもいない。
未読の本の感想なんて書けない。
批評なんて以ての外だ。
だから、この本のことを個別にどうこう言うつもりは全くない。
今回は、
「大学」という場所において、引用というものをどう考えているのか
ということをお話ししたい。
まず、大前提がある。
それは、「コピペ厳禁」というものだ。
これはたぶん、どのようなシーンでも当然のことだと思う。
人の書いたものを勝手にコピーして、それを貼り付けたものを自身の書いたものとするのはありえない。
だが、大学において先生方が「コピペはダメですよ」と言う時、それはこの言葉通りだけの意味ではない。
まず引用という考え方について。
引用は必須だ。
なんの根拠もなく自分の考えだけ書いたって、論文やらレポートやらとして機能しない。
先行研究の論文、原典などを参照し、その一部を引用するというのは大切な作業だ。
だから、引用することに関しては特に問題はない。
気をつけなければいけないのは二点。
①絶対に引用元を示すこと。
著作者の名前、書名、出版社の名前、頁などをしっかりと示すことが大切だ。
もし、これがなければ先生方には怒られ、突っぱねられるし、剽窃だと言われても文句は言えない。
Webの資料を参照する場合にも、そのサイトのURLをちゃんと添えなければならない。
②あくまで引用は添え物であるということ。
提出するレポートや論文の本体はあくまでも自分の意見だ。
引用は結構だし、先行研究を紹介するのも問題ない。
しかし、その引用部分が主になってはいけない。
自分の意見の補強材料として引用を使うのが本来のあり方で、引用部分が本体になってしまっては全く意味が無い。。
次にWikipediaを引用するということ。
文学部の先生方によく、「ネットの資料を参考にする時は気をつけてください」と言われる。
何も、先生方がネットを軽んじているわけではない。
ネットの情報は玉石混交だからだ。
もちろん、書籍の形をとった情報にも質の上下はあるが、ネットの場合はさらに顕著だ。
特に、Wikipediaは多くの人が編集可能だ。
最近だと、山手線の新しい駅である高輪ゲートウェイの記事において、「高輪ゲイ駅」みたいに書き換えるイタズラがあったらしい。
このようなイタズラばかりではないが、誰でも編集可能なWikipediaでは情報の信頼性に疑問がある。
もちろん、Wikipediaは便利だ。
参考にするのは問題ないし、何かを調べる入り口にはもってこいだ。
だが、完全に信じていい資料では無い。
そのため学問の世界では、Wikipediaを引用することはないし、そこに書いてある情報をそのまま使うことも基本的にはない。
ありえないと言ってもいい。
ここまで書いてきたことは、あくまで文学部という限定的な環境で引用とかWikipediaとかについて、どう考えられているか、というお話です。
もちろん、他の学問分野や、出版界では考え方が少し違うかもしれません。
文学部で勉強してる人たちはこう考えているんだなという程度に受け止めてくだされば幸いです。
『人間失格』の映画化
スマホでネットニュースを眺めていたら、小栗旬さん主演で『人間失格』が映画化されるという記事を見つけた。
どうやら、『人間失格』時代を映像化するというよりは、
小栗旬さんが演じる太宰治に焦点をあてて、『人間失格』の誕生秘話を描くらしい。
作品時代は凄く楽しみだし、太宰治という個性的な小説家をどう描写するのか非常に興味がある。
ただ、僕がこのニュースを見て一番気になったのは、
『人間失格』の誕生秘話を描く映画を、
『人間失格』の映画化と言い切っても多くの人が違和感を感じないだろう。
という点だ。
『人間失格』では、大庭葉蔵の手記が中心となる。
この手記の書き出しが、例の「恥の多い人生を…」というものだ。
彼が、道化を演じて生きてきた過去を語るこの小説は、私小説だが、同時にフィクションだ。
もちろん、太宰治の過去の体験が色濃く反映されていることは間違いない。
だが、太宰治が書いた、大庭葉蔵の手記であって、太宰の手記ではないのだ。
日本国内のみならず、相当するの人に読まれてきた本書だが、
その多くの人は、無意識のうちにこれを太宰の自伝的な作品だと感じているのではないだろうか?
だからこそ、『人間失格』の誕生秘話を描く太宰治が主役の映画と『人間失格』の映画がほぼ同義として受け入れられる。
もちろん、われわれ読者が、これを太宰の独白だと読み取ることは、太宰の意図する所ではあるのだろうが…。
さて、『人間失格』では、葉蔵は自信が「お道化」を演じてきたと語る。
それを、太宰治が、その人生において同じく「お道化」を演じてきたと読み取るのは本当に正しいのだろうか。
当然、太宰の実体験や、価値観にそういう側面はあったのだろう。
しかし、太宰治と大庭葉蔵は完全なイコールで結んで良いのか??
という問題には疑問が残る。
葉蔵が道化を演じてきたように、太宰治は自身の小説を通して、「道化を演じ苦悩する葉蔵」を演じたのかもしれないと考えたことある。
僕自身、太宰研究自体に真剣に向き合ったことはなく、自分の読書体験と聞きかじりの知識しか有していない。
だからここで書くことに学問的な意義とかそんな正当性はなく、何となくそういう感想を抱くというだけのことだ。
今回の、『人間失格』の映画化、という出来事を通じて、
太宰治がどんな考えでこの作品を書いたか、
そして、僕達のような読者は、この作品を如何なるものと見なしているのか、
を考えても面白いかもしれない。
読書家は「国語」が本当に得意なのか。
国語という科目は多くの学生を悩ませてきた。
- 単語帳を覚える
- 公式を使いこなせるようになる
- 例題演習を重ねる
といった分かりやすい勉強法がない(と考えられている)ため、
成績がなかなか上がらず多くの中高生が国語に苦しめられてきただろう。
真面目に勉強して、他の教科ではかなりの高得点をとるのに、どうしても現代文の読解ができない人がいる一方で、
宿題もちゃんとやらず、授業中に居眠りしているような落ちこぼれが、何故か国語の点数だけ異様に良かったりする。
きちんと勉強することと、成績に相関性が現れにくいせいで、本を読む習慣の有無が国語の成績に直結すると考える人も多いのではないだろうか。
この「読書家、国語得意説」に対して僕なりの答えを述べていきたい。
個人的な経験
まず、最初に僕自身の個人的な話をしたい。
大前提だが、こんなブログを書いているくらいだから読書は好きだ。
小学校高学年くらいから本格的に小説を読み始め、中学生のときは週に文庫3冊くらいのペースで紹介していたと思う。
人生における読書量のピークは中三の秋だ。
高校受験に備え、夏休みに部活を引退したものの、勉強をさぼってずっと本を読んでいた。
そして、高校に入ると僕は読書から離れていった。
部活が忙しかったのもあるが、「本が友達」状態の内向的な自分を変える必要があると思い、意識的に読書を禁止し、学校の友人たちと積極的に交わるように改めたからだ。
それでも、平均的な10代の少年と比較すればかなり本を読むタイプに分類しても問題ないだろう。
次に成績の話に移ろう。
この際だから、正直に告白しよう。
高校時代の僕の成績は相当悪かった。
間違いなく、落ちこぼれだった。
高校には部活をしに行っているようなもので、授業は半分くらい居眠りをしていた。
地方の中堅どころの公立進学校で学年全体の下数人という立ち位置だった。
その頃受けた全国共通の模擬試験の成績は、どの教科も全国平均を下回っていた。
ただ、今日の本題の国語の成績だけは良かった。
もちろん勉強していないので古文漢文を含む国語全体の成績は酷いものだった。
現代文に限定すればそれなりに成績は良かったと記憶している。
しかし、あくまでも「それなり」に良かっただけだ。
確かに、一かけらも勉強していない他教科に比べれば、格段に良い点数を取れた。
でもそれだけ。
当時の僕は、全教科が「不得意教科」だった。
ただ、国語だけ唯一「不得意」の枠からは何とか脱していたに過ぎない。
要するに何が言いたいのかというと…
本を読む習慣があるということは、
「国語(特に現代文)が不得意で、全くできない状態を脱する要素にはなる」
という程度には役に立つ。
これが結論だ。
ここからは、僕がこの結論に至った理由を挙げたいと思う。
読書家が国語が苦手になりにくい理由
①長い文章を読むことに対しての嫌悪感がない。
国語ができない!と嘆く中高生の多くは、そもそもあの長い問題文をちゃんと読むこと自体を苦痛に感じている。
普段から数百ページの本を読みこなしている本好き少年/少女は、まずその第一関門を突破できる。
これが意外と大きい。
②語彙力で差が出る。
普段から文章を読んでいることで、多くの言葉に出会うのは利点の一つだ。
慣用句や四字熟語、筆者の気取った詩的な表現なんかを抵抗なく咀嚼できれば、国語の試験への苦手意識は間違いなく軽減される。
③日本語の文章の型に慣れ親しんでいる。
これが一番大きい利点だ。
本をよく読む人は、日本語の文章の型を知っている。
例えば、文章で意見を言うときには言い換えがなされるとか、逆接を使うことで自分の意見を強調するとか、小説なら起承転結があるとか…
いつも本を読んでいる人は無意識に理解してるが、文章には仕組みがある。
その仕組みを理解していると、読解の大きな助けになる。
まとめ
この3つの理由から、読書家は国語に対して苦手意識を持たずにすむ場合が多いと考えている。
ただ、皆さんも勘づいているかもしれないが、これは些細な利点だ。
0と1との間の壁は大きいかもしれないが、読書習慣のない人でも国語の勉強を始めればすぐに習得してしまう能力に過ぎない。
だから、読書家は国語という科目において、スタートダッシュは切れるし、苦手にはなりにくいが、受験の際に明確な武器にできるほどかというとNOという答えになる。
読書家だからといって国語が得意とは限らない理由
最後に、読書が好きだからって、国語が抜群にできるようにはならない理由を説明したい。
これは、超単純な理由がある。
国語は他の教科と同様に勉強によって伸びるから!
冒頭で、「国語には分かりやすい勉強法がない(と考えられている)」と言ったが、これは大きな誤解だ。
国語はちゃんと勉強すれば、ちゃんと伸びる。
日本史で、人名や年号を覚えるように…
科学で、元素記号や化学式を覚えるように…
国語も、ちゃんと理解して覚えれば点数が伸びる教科だ。
読書はあくまで趣味であって、勉強ではない。
本が好きとかいうあやふやな点に、国語の成績の原因を求めるのは間違いだ。
現代文だって、正しい取り組み方を学べば、努力に応じて成績は向上する。
ただ、普通の学校における国語の授業はそれを教えてくれない。
教科書にのった名作をみんなで読んで、先生が言う解釈を何となく聞き流すだけ。
それが良くない。
文章の主張を、論理的に抜き出す技法を指導する環境がないから、タイトルみたいな神話がはびこってしまうのだ。
このブログはあくまで読書がテーマです。
頑張って勉強しなくてはいけない中高生に、しょうもない神話(笑)に惑わされてほしくないな~と思ったので、ブログの題材に取り上げてみただけです。
だから、「じゃあ具体的に国語はどうやって勉強するの??」というノウハウをここで書くことはしません。
まあでも、言いたいことだけ言って、ここで逃げるのも卑怯なので、
もし、具体的な勉強のことで聞きたいことがあればコメントやTwitterのリプライで質問してください。
できるだけお答えするようにします。
【追記】
ここで書いたことはあくまで僕の個人的な考えです。
僕の考えが絶対だと主張するつもりはありません。
宮下奈都『羊と鋼の森』の感想文
宮下奈都『羊と鋼の森』
今日の感想文では、二年前の本屋大賞受賞作を紹介しようと思う。
宮下奈都の『羊と鋼の森』は、「師がいて、そこに弟子入りする男の子の話」だ。
高校生の外村が、高校の体育館に置かれたグランドピアノを調律する板鳥の姿を見かける。
それまで、ピアノとあまり馴染みのない人生を歩んできた彼にとって、
ピアノを調律する光景は新鮮な感動を生んだ。
その時の感動がきっかけで、外村はピアノ調律の専門学校で学び、板鳥が働く地元の楽器店・江藤楽器に就職し、先輩調律師たちの背中を見ながら少しずつ成長していく。
外村という青年が弟子。
江藤楽器の先輩調理師たちが師匠。
師匠と弟子というと、僕は専ら、刀鍛冶が燃え上がる火を前に上半身裸で汗を流すような絵を想像してしまう。
だが、本書の師弟関係はもう少し爽やかで幻想的だ。
外村に直接仕事を教えてくれる柳。
彼は、自身でも趣味で音楽を楽しみ、恋人との結婚も控えた爽やかリア充な師匠だ。
外村は彼の仕事に同行し、手伝いをすることで仕事を覚えていく。
面倒見がよく、外村に対して丁寧に優しく教え導く一方で、大切なことはしっかりと諭す。
こんな先輩がいたらと思える素敵な人間だ。
そして、気難しい先輩の秋野。
彼は、以前プロのピアニストを目指していたが、夢半ばで諦め今はピアノ調理師として働いている。
ピアノの実力だけでなく、調律の実力も素晴らしいのだが人間的に難がある。
偏屈で絡みづらく、優しく教えてくれるなんてことはめったにない。
だが、音楽と調律に対してはひたすらに真摯に向き合う。
その姿を通して、外村も様々なものを学んでいく。
そして、外村が調理師を目指すきっかけとなった板鳥。
彼は、江藤楽器のエースだ。
調律の腕は抜群で、世界的な有名ピアニストに指名されて、彼のコンサートで使うピアノを調律する。
作中では、外村と直接会話するシーンこそ少ないものの、目指すべき憧れの存在として、かなり存在感を発揮する師匠だ。
この3人の師匠との交流を通じて成長していく外村の物語は素敵だ。
ピアノや音楽は幻想的に描かれ、師匠が外村に与える助言はどれも心に沁みる。
本当に綺麗な小説だと思う。
「私、美しいものが好きですの」
なんて語る架空のお嬢様に勧めたい。
そして、本作で僕が最も気に入っているのはタイトルだ。
『羊と鋼の森』というタイトルを最初に目にした瞬間に、一目惚れした。
僕の母親は自宅でピアノ教室を開いている。
自宅の一室をピアノ用の部屋にして、そこで教えている。
個人でやっている小さな教室で、生徒数もそんなに多くない。
授業料はピアノの維持費と母のちょっとしたへそくりになる。
そのおかげで、僕の生まれ育った家庭にはピアノがあった。
大きなグランドピアノだ。
光沢のある黒いピアノはなんだが崇高なものに感じられて、
幼い僕は畏怖の念を抱いていた。
そして、ピアノの蓋を開けるとそこは無機質な異世界が広がっている。
ハンマーや絃が張り巡らされたその空間に魅了され、母に黙って勝手に蓋を開けて眺めたものだ。
その時眺めたピアノの内部は、まさしく『羊と鋼の森』だった。
そして、数か月に一度訪れる調律師のオジサンは、その森を自在に操る魔法使いに見えた。
様々な道具を用いて、複雑なピアノ内部を弄るその姿に幼少期の僕は憧れていた。
本当にカッコイイ。
だから、調律師に魅せられる外村の気持ちが痛いほど分かる。
実家にピアノがあったおかげで、外村の憧れに寄り添いながらこの本を読めた僕は本当に幸運だった。
煙草の文学的副流煙の話
ちょっとだけ恰好つけて、気取ったタイトルをつけてみた。
この文章を書いているのは、午前三時過ぎ。
それに、数時間前までお酒を飲んでいて、やっと良いが冷めてきたというタイミングだ。
どうか深夜とアルコールに免じて許してやって欲しい。
小説や映画、劇など様々な創作のなかであるアイテムが特定の役割を持つことがある。
例えば、父の形見の懐中時計は主人公を励ます勇気の象徴になる。
大きな姿鏡の存在は着飾った女性を連想する。
僕たちは、身の回りのあらゆるものに様々なイメージを結び付けて生活している。
その中でも、煙草というアイテムは特に色濃くイメージを想起させる装置になり得る。
(あくまでも物語中のイメージとしての話なので、現実世界における偏見や差別意識みたいなものと結びつけるつもりはありません。ご理解ください。)
若者が煙草を吸えば、非行や暴力などマイナスイメージに繋がる。
特に10代になると、法律では規制されているのに、入手難易度は低い。
火遊び的な「悪事」として使われるアイテムだ。
スーツ姿の中年男性に煙草を持たせれば、仕事に疲れたサラリーマンが出来上がる。
路地裏で独り煙草を吸う彼は、妻子からは軽んじられ、職場でも上司に頭を下げ、部下には疎まれている。
煙草の煙は哀愁を漂わせる。
ばっちり化粧をした女性が細い煙草を吸えば、男に頼らず生きる蓮っ葉な女の完成だ。
もしくは、恋人の影響で煙草を吸う精神的に不安定なメンヘラちゃんかもしれない。
はたまた、水商売を稼業する孤独な女性かもしれない。
煙草の銘柄にも、特定のイメージを思い起こさせる力がある。
日に焼けたガタイの良い兄ちゃんが吸う煙草はセブンスターだろうか。
休日には、サーフィンといったところだ。
しょぼくれた老人が、路頭に迷った主人公に思いがけぬ助言を与える。
この老人がくしゃくしゃに握りしめている煙草は何だろう。
キャスターやマルボロじゃなんだか違和感がある。
わかばやエコー、ショートピースあたりだと雰囲気ってものが出る。
必死に働く一家の稼ぎ頭のお父さんが我が家のベランダで吹かす煙草は、ハイライトだろうか。
マイルドセブンも悪くない気がする。
小説を読む中で、様々な場面で、様々な煙草が、そのシーンを彩る様子を見てきた。
こうした僕の煙草というアイテムから連想するイメージは、個人的な経験に由来するものもある。
だから、皆さんには違うイメージがあるかもしれない。
僕の父はマイセンを吸っていたから、マイセン=父性の図式がある。
赤マルは、ちょっと怖い先輩が吸っていた。
ただ、こうしたイメージも小説からどんどん減っていくのだろう。
街角で煙草を吸う人の姿は年々減っていく。
友人知人の中でも、喫煙者は少数派だ。
禁煙の居酒屋も増えてきた。
今の子どもたちが大人になるころには、煙草から連想するイメージは「古さ」になるかもしれない。
煙草自体は体に害をなし、もちろん、吸わない方が良いものだ。
この前提を崩すつもりはない。
嫌煙論争をここでするつもりも毛頭ない。
ただ、物語から、煙草の煙が消えていくのは少しだけ寂しいかもしれない。
石原慎太郎『太陽の季節』の感想文
石原は、1999年から2012年まで四期に渡り都知事を務めた。
そのため、僕の少年時代に登場する都知事は常に石原慎太郎だった。
物心ついたころからずっとそうだった。
たぶん僕と同世代の若者にとっては、
石原慎太郎=東京都知事で、東京都知事=石原慎太郎の公式が成立している。
「あ、他の人もなれるんだ」
と、よく考えれば当たり前のことに驚いた。
正直言って、彼に対しては小説家としてのイメージはあまりない。
芥川賞も受賞した有名な小説家であることは知識としては有しているが、かなり違和感がある。
これがもっと若い世代までいくと、都知事としてインタビューに答える姿の印象が薄れ、単に事実として彼が小説家だと受け入れられるのだろうか。
余談が長くなったが、僕にとっての石原慎太郎像とはこんな感じであるため、彼の作品を初めて読んだのもかなり遅かった。
20歳になって、やっと『太陽の季節』を読んだ。
大学進学を機に、上京し、一人暮らしを始め、しばらくたって慣れてきた。
そういうタイミングだ。
多少なりとも、「遊び」は覚えたし、一方であまりに派手に「遊ぶ」連中とはどこか合わないなと分かってきた時期だ。
この時期の僕にとって、『太陽の季節』はなかなかに強烈な作品だった。
いや、正直に言おう。
強烈に理解できない作品だった。
作中の登場人物にこれっぽっちも感情が入っていかない。
主人公の竜哉にも、その兄にも、ヒロインの英子にも、彼らを取り巻く友人たちにも…
どの登場人物の心境も理解できない。
普通、どんなジャンルの小説でも、作中の人物に多少自己を投影できる。
古い海外の作品だって、時と場所を超えた人間の本質、と大仰に語るのがふさわしいのかは自信がないが、どこか理解できるものはある。
サイコパスな殺人鬼だろうと、自分とは違うとは思いつつも、どこか理解できる部分もあったりするものだ。
だが、『太陽の季節』は本当に分からない。
数十年前の日本の富裕層の若者。
たぶん、彼らの感覚と僕の感覚とは途方もなく離れている。
遊びに使えるお金の多寡だとか、育った環境だとか、世相だとか、
そういう全てを超えて「違う」感性で生きていると感じた。
何となく始めた拳闘に打ち込み、ナンパした女と体を重ね、金のかかりそうな遊びをする。
文字にすると、今の時代だって似たようなことをする若者はいるはずなのに、
実際に『太陽の季節』を読んでしまうと、「違う」という印象を抱く。
しかしながら、作中の人間が理解できないにも関わらずこの作品には引き込まれる。
『太陽の季節』全体に通う地脈のような、
その時代の石原慎太郎が抱く価値観はとんと理解できない。
でも、この短編は読み手を引き付ける。
最後の一頁、英子の葬式に行き香炉を投げつけ、その後でサンドバッグにいろんなものをぶつけるシーン。
これもあまり理解はできない。
だけど妙に心に残る。
芥川賞受賞作家の筆力故だろうか。
うーん。間違ってはいない。
たぶんそれもある。
だけど、作家の筆の力に答えを求めるのは安直にすぎる。
では、どうしてだろう。
そうやってずっと悩んでいた。
なんで、育ちも人間性も境遇も行動も、自分とは全然違う『太陽の季節』魅せられてしまうのだろう。
登場人物の気持ちなんてちっとも入ってこないのに。
この問いの答えが最近やっと分かった。
正しくは、分かった気がする。
違うと思っていた、作中の人物と僕自身にやっと共通項があった。
僕も彼らもどこか「空っぽ」な部分があるから。
それが僕にとっての答え。
もちろん、その由来は全然違う。
裕福な家庭に生まれ、放蕩生活(10代にも関わらず放蕩という表現に違和感がない)を送る主人公の心には虚無感がある。
男友達や女に囲まれ、遊ぶ金もある。
肉体的にも精神的にも快楽を得ている。
好きなように遊んでいる。
それでもどこか退屈で、どこか「空っぽ」な部分がある。
僕は、そして、僕を含む同世代の若者はどうだろうか。
たぶん、生まれたときにはバブルは終わり不景気だった。
そして、ずっと不景気の中で生きてきた。
実際の景気がどうだったかはともかく、なんとなく不景気っぽい社会風潮だったとう言い方の方が適当だろう。
そして、物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが大事だだとか、学歴よりも個人の資質だだとか…
大人たちは、僕らに対して、より幸せ具合を測る難易度を引き上げてくる。
インターネットやSNSみたいな社会の根底部分での変化もある。
そういったものに僕らはどう向き合えばいいのかわからない。
若者には向上心がない、なんて聞き飽きた説教のお題目がある。
向上心がないんじゃなくて、なにが上なのかも分からないんだ。
だから僕らは何をやっても「どうせ」と思い、「空っぽ」を抱えている。
何もこれは、僕らの世代だけの、もしくは僕だけの特別だと言い張るつもりはない。
たぶん、どの世代に生まれても、どの環境に生まれても、
違う理由で勝手に「空っぽ」を作る。
若者とはそう生き物なんだと思う。
『太陽の季節』という作品は、読む人によって、
理解できるかできないか、
感情移入できるかできないか、
は分かれても、その根底の「空っぽ」だけは共有できる物語だ。
この小説は、時代を超えて若者に「刺さる」
あいみょん『ふたりの世界』の感想文
あいみょん『ふたりの世界』
シンガーソングライターのあいみょん。
兵庫県西宮市生まれの23歳。
自分と同年代の若い方が素晴らしい活躍をしていることは純粋に凄いと感動する。
友人に勧められて聴き始めたのだが、
最初は「あいみょん」というファンシーな名前から、
カラフルな衣装を着たアイドル系の歌手なのだと思ったし、
曲も思いっきりポップなものを想像していた。
でも全然違うんですね。
名前から受けるイメージとは丸っきり反対でビックリしました。
ノスタルジックな曲調だったり、なかなか過激で独特な歌詞だったり、才能を感じる素晴らしいアーティストだ。
椎名林檎を引き合いに出して語る人もいる。
あいみょんと椎名林檎が似ているか似ていないかは置いといても、椎名林檎の名前を出される時点でそれだけ才能と期待が大きいことの証だろう。
そんな彼女の名曲の1つ。
『ふたりの世界』
良曲はたくさんあるが、「歌詞」が1番好きなのはこの曲だ。
ものすごく官能的なラブソングで、あいみょんがとある番組で「官能小説を読む」という話をしていた時は腹落ちした。
冒頭部分を少しだけ紹介しよう。
いってきますのキス
おかえりなさいのハグ
おやすみなさいのキス
まだ眠たくないのセックス
お風呂からあがったら
少し匂いを嗅がせて
まだタバコは吸わないで
赤いワインを飲もう
キス、ハグ、キス、セックスときて、その後は嗅覚に訴求する。
普段はタバコの匂いをまとっている男が、風呂上がりにだけ漂わせる素の匂い。
きっとこの歌詞を歌う女性は、男のタバコの匂いは嫌いではないんだろうな。
ちょっとタバコ臭いけど、それも含めて恋人の匂いで、その匂いを嗅ぐのも密かな楽しみ。
でも、それでも、素のままの匂いもたまに嗅ぎたくなるのだろう。
この後も官能的で、素敵な歌詞が続く。
そして当然、メロディーも抜群だし、あいみょんの歌も素晴らしい。
the若者感満載の「あいみょん」という名前とは裏腹に、大人が好きな歌を歌う。
もし、まだ聞いたこがなければ是非聞いてみて欲しい。
今日も本の感想からは離れてしまい、最近、お気に入りのアーティストについて書いてみました。
小説の感想文もどんどん書くので、よろしくお願いします。